酒井忠予
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酒井 忠予(さかい ただやす、酒井忠豫、明暦3年8月15日(1657年9月22日) - 享保20年12月16日(1736年1月28日))は、出羽松山藩の第2代藩主。左衛門尉系酒井家分家2代。初代藩主・酒井忠恒の長男。母は吉田主計の娘・正寿院。正室は溝口重雄の娘。子に酒井忠英(長男)、酒井忠寄(次男)、娘(遠藤胤親正室)らがいる。側室に高橋氏。官位は従五位下。石見守。
明暦3年(1657年)8月15日 (旧暦)生まれ。幼名は大助。延宝3年(1675年)、父の死去により後を継ぐ。大坂城加番を務めた。藩財政が窮乏化したため、藩財政再建のために俸禄の借上を行なっている。享保17年(1732年)11月25日、養嗣子の酒井忠休に家督を譲って隠居し、享保20年(1735年)12月16日 (旧暦)に79歳で死去した。長男・忠英は病弱のため廃嫡している。法号:詠境院殿勝誉超清遊円大居士。墓所:山形県酒田市の心光寺。
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