酒井忠良 (出羽松山藩主)
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酒井 忠良(さかい ただよし、天保2年(1831年) - 明治17年(1884年)10月1日)は、出羽松山藩の第7代藩主。左衛門尉系酒井家分家8代。6代藩主・酒井忠方の長男。正室は大岡忠固の娘。子は酒井忠匡(三男)。官位は従五位下。大学頭。紀伊守。
弘化2年(1845年)10月20日、父の隠居により後を継いだ。戊辰戦争では本家の庄内藩と共に奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦った。しかし明治元年(1868年)9月に降伏する。同年12月7日、幕府側に与した処罰として2万5000石から2500石を召し上げられて2万2500石となり、12月15日には家督を三男・忠匡に譲った上で強制隠居処分に処せられた。明治17年(1884年)10月1日、54歳で死去。墓所:東京都新宿区袋町の光照寺。
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