重農主義
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重農主義(じゅうのうしゅぎ、physiocracy)とは18世紀後半、フランスのケネーなどによって主張された経済思想およびそれに基づく政策。富の唯一の源泉は農業であるとの立場から、農業生産を重視する。
重商主義を批判し、レッセフェール(自由放任)を主張した。この考え方はアダム・スミスの思想に大きな影響を与えることになった。
重農主義は、創始者と共通の思想を持った歴史上最初の経済学派である。
[編集] 東洋における重農主義(農本主義)
また、西洋の重農主義とは全く無関係に古代中国では、食糧を生み出す農業(本)とその生産手段としての土地を尊重して商業(末)を抑制するという重農主義的な主張が取られた。こうした考え方は農本主義(のうほんしゅぎ)と呼ばれ、こうした考え方に特に積極的であったのが法家と農家と儒家(儒教)である。特に後者は中国と周辺諸国においては政治思想の中核として発展し、江戸時代の日本における経済・社会政策の基本的な方針となった。
農本主義における「本」とは農業従事者(既成地主は除く)と生活必需品を生産する最低限の手工業を指し、「末」とは贅沢奢侈な商品を製造・販売する商工業者を指す。
その背景として、中国においては商業活動によって財を得た地主・商人・豪族達が土地を兼併して土地と住民を自己のものとして、政治的発言力と自己防衛のための兵を備えるようになり、更にこれを背景として不輸・不入の権を得て、軍事的・財政的に王朝を軍事的・財政的に脅かす存在となり、また彼らによって土地を奪われた流民も盗賊などの形で武装化して社会秩序を破壊する存在になり、上と下から王朝を転覆させるだけの圧力となり得るからである。
だが、実際に中国の歴史を見ると他国に征服された場合を除けば、多くの王朝が創建から日が経つにつれて地主・商人・豪族の土地兼併と農民の流民化の進行につれて社会秩序は混乱して王朝が崩壊し、新しい王朝が新秩序を形成するという過程を繰り返している。この間に豪族抑制の政策が取られる事もあったが、その王朝そのものがこうした豪族達から擁立されて成立したものであり、官僚もこれらの層から輩出されているために全く効果が無かったのである。
東西を問わずこうした思想が発達した背景には、近代農業以前において農業生産は極めて不安定であり、農作物の不作がしばしば発生した。不作は食料品の価格上昇につながり、場合によっては飢饉やその他社会不安を惹き起こす可能性もあった。従って、国家・社会にとって食料の確保は重要な課題であり、その死命を制するものであった。そこに農業を保護する事を重視する政治・経済思想(重農主義・農本主義)が現われるようになったのである。実際、ケネーが重農主義を唱えるにあたって中国にも同様の考え方が存在している事をイエズス会の宣教師の著書を通じて知っていたとも言われている。
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