鈴木芙蓉
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鈴木芙蓉(すずき ふよう、宝暦2年(1752年) - 文化13年5月27日(1816年))は、江戸時代中期後期の日本の文人画家。江戸南画様式の確立に影響を与えた。
名は雍、字は文煕、通称 新兵衛。号は芙蓉、老蓮。古文献などでは高芙蓉と区別するため木芙蓉と記述される場合がある。
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[編集] 生涯
信濃国北方村(長野県飯田市伊賀良北方)に木下甚内の次男として生まれる。同郷の画家 佐竹蓬平とともに白隠禅師の高弟 寒山永啄の寺子屋で学ぶ。
明和年間に江戸に出て渡辺玄対の養父である渡辺湊水について画を学んだ。林鳳岡の家僕となり学問に励み儒者としての素養を身につける。その後、深川三角油掘に移り住み、柴野栗山、亀田鵬斎、太田錦城ら当代一流の儒者と交流している。 漢詩もよくし、菊池五山、大田南畝などとも関係している。また平沢旭山の『漫遊文草』に挿絵を画いているが、画家ではなく儒者と見られることを好んだ。
寛政期より画作が盛んとなる。江戸南画の大成者谷文晁とはその師であり弟子ともされるが、むしろ相互に影響しあった関係と推察される。渡辺玄対や北山寒厳とも同様な関係であろう。芙蓉の作品は儒者的気質を反映して漢文化が主題となっており当時の文人からの評価は高かった。
寛政5年(1793年)、浪速に木村蒹葭堂を訪ねてその足で熊野に分け入り那智瀑布を写生。代表作「那智大瀑雨景図」を製作する。
寛政8年(1796年)に画才を認められ徳島藩蜂須賀家の御用絵師となる。 「鳴門十二勝真景図巻」などを画く。 阿波踊りを描いた最古の絵「阿波盆踊図」もこのころの作品。画室を「中禅窟」とした。
実子の鈴木小蓮が25歳で夭折。 鈴木鳴門を養子とした。
享年65。江戸浅草大仙寺に葬られる。法名、老蓮院文煕日雍居士。 鈴木鳴霽(めいさい)は孫にあたり、鳴門とともに徳島藩の御用絵師を継承した。
[編集] 代表作
- 「江畔避暑図」個人蔵(1788年)
- 「紅白梅図屏風」個人蔵(1790年)
- 「東方朔図」伊賀良小学校(1790年)
- 「那智大瀑雨景図」静嘉堂文庫美術館(1798年)
- 「鳴門十二勝真景図巻」徳島市立徳島城博物館(1796年)
- 「墨梅図」飯田市美術博物館(1816年)
[編集] 刊行物
[編集] 画本
- 『費氏山水画式』天明7年(1787年)
- 『唐詩選画本』寛政2年(1790年)
- 『唐土名山図会』寛政13年(1801年)
- 『画図酔芙蓉』文化6年(1809年)
[編集] 挿絵
- 平沢旭山『漫遊文草』天明7年(1787年)
[編集] 関連文献
- 青柳文蔵『続諸家人物誌』
- 雲室上人『雲室随筆』
- 朝岡興禎『古画備考』
- 安西雲煙『近世名家書画談』
- 黒川修一「江戸で活躍、文雅の画人芙蓉」『佐竹蓬平と鈴木芙蓉』信濃毎日新聞社、1990年。
[編集] 出典
- 槇村洋介「鈴木芙蓉と江戸南画の潮流」『図録 特別展 江戸南画Ⅰ - 谷文晁と鈴木芙蓉 -』飯田市美術博物館、1999年、112-115頁。
- 渥美国泰『写山楼谷文晁のすべて 今、晩期乱筆の文晁が面白い』里文出版、2001年、105頁、 ISBN 4898061729。