関藩
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関藩(せきはん)は、美濃国(現在の岐阜県関市迫間)に存在した藩。
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[編集] 概要
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、大島光義は93歳という高齢を押して東軍に与して戦功を挙げた。光義は織田信長・豊臣氏に仕え、慶長3年(1598年)に1万1200石を与えられて大名になった人物である。関ヶ原の戦いでは、石田三成に卑怯にも妻子を人質に取られたが、光義は妻子を顧みずに東軍に与して戦功を挙げた。家康は恐らく、その態度を賞賛したのであろう。光義を戦後に1万8000石に加増し、ここに関藩が立藩したのである。
光義は慶長9年(1604年)に死去した。死後、家督は大島光成が継いだが、彼は家督と7500石の所領しか継がず、残りの所領は弟の大島光政・大島光俊・大島光朝にそれぞれ分与したため、関藩は廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 大島(おおしま)家
外様。1万8000石。
- 大島光義(みつよし)