院政
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院政(いんせい)とは、在位する天皇の直系尊属である太上天皇(上皇)が、院庁において天皇に代わって政務を直接行う形態の政治である。院政を布く上皇は治天の君とも呼ばれた。
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[編集] 概要
[編集] 前史
天皇が余力ある内に引退し、若き子(孫)の天皇を後見するという意味では、院政の萌芽は持統天皇・聖武天皇などから見え、平安時代に入っても嵯峨天皇や宇多天皇や、円融天皇などにも見られる(後述)。日本の律令下では上皇は天皇と同等の権限を持つとされていたため、こうしたやや変則的な政体ですら制度の枠内で可能であった。これらの天皇は退位後も「天皇家の家父長」として若い天皇を後見するとして国政に関与する事があった。だが、当時はまだこの状態を常に維持するための政治的組織や財政的・軍事的裏付けが不十分であった事、平安時代中期には幼く短命な天皇が多く十分な指導力を発揮するための若さと健康を保持した上皇が絶えて久しかったために父系によるこの仕組みは衰退し、代わりに母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していくことになる。
だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条が即位することとなった。後三条は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。
後三条以前の天皇の多くも即位した直後に、王権の確立と律令の復興を企図して「新政」と称した一連の政策を企画実行していたが、後三条は外戚に摂関家を持たない強みも背景として延久の荘園整理令(1069年)などより積極的な政策展開を行った。延久4年(1072年)に後三条は第一皇子(白河天皇)へ生前譲位したが、その直後に病没してしまう。このとき、後三条は院政を開始する意図を持っていたとされているが、病気が譲位の理由であり院政開始は企図されていなかったとする説もある。
その一方で近年では宇多天皇が醍醐天皇に譲位して法皇となった後に天皇の病気に伴って実質上の院政を行っていた事が明らかになった事や円融天皇が退位後に息子の一条天皇が皇位を継ぐと政務を見ようとしたために外祖父である摂政藤原兼家と対立していたという説もあり、院政の嚆矢を後三条天皇よりも以前に見る説が有力となっている。
[編集] 白河院政
次の白河は摂関家を外戚に持つ天皇であったが、後三条と同様に親政を行った。白河は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白川院と称して、引き続き政務に当たった。これが院政の始まりである。嘉承2年(1107年)に堀河が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、白河は院政を継続した。白河以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の国王として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。
ただし、白河は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河の本来の意志は、皇位継承の安定化(というより自系統による皇位独占)という意図があった。弟である実仁親王・輔仁親王が有力な皇位継承候補として存在している中、我が子である善仁親王に皇位を譲ることでこれら弟の皇位継承(およびそれを支持する貴族)を断念させる意図があった。
直系相続による皇位継承は理想的である反面、皇位継承男子が必ずしも確保できる訳ではなく常に皇統断絶の不安がつきまとう。逆に多くの皇子が並立していても皇位継承紛争が絶えないこととなる。院政の下では、「治天の君」が次代・次々代の天皇を指名できたので、比較的安定した皇位継承が実現でき、皇位継承に「治天の君」の意向を反映させることも可能であった。摂関政治の下で、皇位継承に摂関家の意向が大きく反映していたのと大きく異なっている。
また、外戚関係を媒介に摂政関白として政務にあたる摂関政治と異なって、院政は直接的な父権に基づくものであったため、専制的な統治を可能としていた。院政を布く上皇は、自己の政務機関として院庁を設置し、院宣・院庁下文などの命令文書を発給した。また、院独自の側近は院の近臣として権勢を強め、独自の軍事組織として北面の武士を置くなど、平氏を主とした武士勢力の登用を図ったため、平氏権力の成長を促した。そのため、白河による院政開始をもって中世の起点とする事もある。
[編集] 院政の最盛と衰退
白河は、鳥羽の第一皇子(崇徳天皇)を皇位につけた後に没し、鳥羽が院政を布くこととなったが、崇徳は白河の実子であると言われており、鳥羽は崇徳を忌避し、第九皇子である近衛天皇(母、美福門院)へ皇位を継がせた(近衛没後はその兄の後白河天皇(母、待賢門院)が継いだ)。そして、保元元年(1156年)に鳥羽が没した直後、崇徳と後白河の間で戦闘が起こり、後白河が勝利した(保元の乱)。
後白河は保元3年(1158年)に二条天皇へ譲位すると院政を開始した。後白河院政期には、平治の乱と平清盛政権の登場およびその崩壊、治承・寿永の乱の勃発、源頼朝の鎌倉幕府成立など、武士が一気に台頭する時代となった。後白河の後は、その孫の後鳥羽天皇が院政を行った。後鳥羽院は、将軍源実朝が暗殺された事を好機とし、皇権復興を企図して鎌倉幕府を倒そうとしたが失敗(承久の乱)、自身は流罪となった上、皇権の低下と朝廷へ執権北条氏の介入を招いてしまった。乱後、後堀河天皇が即位するとその父親である行助入道親王が皇位を経ずして院政を行う(後高倉院)という事態も発生している。
白河~後白河又は白河~後鳥羽期が院政の典型・最盛期とされている。院政はこの後、建武の新政、南北朝時代を経て、室町時代の永享5年(1433年)に後小松天皇が死去するまで続き、以降、院政は事実上の終焉を迎えた。
江戸時代末期に閑院宮出身の光格天皇が、息子の仁孝天皇に譲位して院政を行ったが、これが現在において最後の院政である。
[編集] 世界史上から見た院政
君主位譲位者が後継者の後見として実質的な政務を行うという政治体制は、恒久的な制度としては世界史的にきわめて稀であり、他にはヴェトナムの陳朝にその例を見る程度である。
[編集] 現代日本における「院政」
院政という言葉は現代日本でも使われている。組織のトップが公的地位を去り、なおも執行部に対して決定的な影響を常時与える形態を指す比喩である。主に国政や企業経営の状況に対して使われる。
政治においては、スキャンダルによって退陣を余儀なくされた内閣総理大臣が、なお与党内において最も強力な影響力を保持している場合に「院政」の比喩が用いられる。例えば、竹下登が政権退陣した後の宇野宗佑政権・海部俊樹政権が「竹下院政」と称されたことがある(事実がそうであるかは不明)。現代日本政治の「院政」は、名目上実権を持たない地位について実質的な権力を行使することにより、権力行使に伴う法的・道義的責任を回避することを主目的とする意味で使われており、歴史上の院政とは本質的に異なる。また企業や団体での類似の現象も院政と比喩されることがあるが、この場合は忠実な腹心や縁者を後継者として確定させることにより権力の更なる強化を図る意味合いが強い。
[編集] 院政一覧
[編集] 平安時代・鎌倉時代
- 白河上皇 - 堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇
- 鳥羽上皇 - 近衛天皇、後白河天皇
- 後白河上皇 - 二条天皇、六条天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇
- 後鳥羽上皇 - 土御門天皇、順徳天皇、仲恭天皇
- 後高倉院 - 後堀河天皇
- 後堀河上皇 - 四条天皇
- 後嵯峨上皇 - 後深草天皇、亀山天皇
- 後深草上皇 - 伏見天皇
- 亀山上皇 - 後宇多天皇
- 後宇多上皇 - 後二条天皇、後醍醐天皇
[編集] 室町時代
- 伏見上皇 - 後伏見天皇、花園天皇
- 後伏見上皇 - 花園天皇、光厳天皇
- 光厳上皇 - 光明天皇、崇光天皇
- 後光厳上皇 - 後円融天皇
- 後円融上皇 - 後小松天皇
- 後小松上皇 - 称光天皇、後花園天皇
- 後花園上皇 - 後土御門天皇
[編集] 江戸時代
[編集] 参考文献
- 美川 圭『院政の研究』(臨川書店、1996年) ISBN 465303284X
- 美川 圭『院政 もうひとつの天皇制』(中公新書、2006年) ISBN 4121018672
- 元木泰雄『院政期政治史研究』(思文閣、1996年) ISBN 4784209018
- 槙 道雄『院政時代史論集』(続群書類従完成会、1993年) ISBN 4797106522
- 白根靖大『中世の王朝社会と院政』(吉川弘文館、2000年) ISBN 4642027874