高歓
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姓名 | 高歓 |
年号 | ― |
廟号 | 高祖 |
字 | 賀六渾 |
諡号 | 神武皇帝 |
生没年 | 496年-547年 |
在位 | ― |
父 | 高樹 |
母 | ― |
高 歓(こう かん、496年 - 547年)は漢化した鮮卑族であり(或いは鮮卑化した漢人とも)、北斉の基礎を築いた人物。字は賀六渾(もしくはこれが高歓の鮮卑名とも)。彼自身は即位はしていないが、息子の高洋が北斉を開いた後に、廟号を高祖、諡号を神武帝と追贈された。
目次 |
[編集] 出生
高歓は496年に武川鎮の軍閥に属する高樹の子として渤海郡蓨県(現在の河北省景県)に生まれた。出自は漢族と史書は伝えるが、おそらくは鮮卑出身であったと考えられている。
幼少の時は家が貧しかった。北魏末の六鎮の乱に参加し、初めは杜洛周、次いで葛栄に従ったが、降伏して奚族の爾朱部の長の爾朱栄に身を寄せ、晋州刺史に昇った。
その爾朱栄が孝荘帝に殺害されると、彼は信都を拠点に自立した。その後は爾朱一族の内紛に乗じ山西を奪った。532年、亡き爾朱栄の甥の爾朱兆を討ち、洛陽に攻め入り、爾朱兆を初めとして、爾朱一門を捕らえてこれを処刑し、かつては威勢を誇った奚族の爾朱部はここで滅びた。
洛陽を奪った高歓は元修を孝武帝として擁立し、自らは大丞相を称し、北魏の実権を握った。
高歓の権勢に対抗すべく、孝武帝は賀抜岳(長孫岳)を用いて高歓への牽制を模索する。この動きに対し、高歓は534年に賀抜岳を殺害し、孝武帝は長安の宇文泰の元に逃亡する事態が発生する。
同年、高歓は孝静帝を鄴で擁立し東魏を建て専権を掌握した。孝武帝を擁する宇文泰と対立したが、河東奪回の戦役の中で、52歳で没した。
[編集] 后妃
[編集] 子女
[編集] 子
- 太祖・文襄帝 高澄
- 顕祖(太宗)・文宣帝 高洋
- 永安簡平王 高浚
- 平陽靖翼王 高淹
- 彭城景思王 高浟
- 粛宗・孝昭帝 高演
- 上党剛肅王 高渙
- 襄城景王 高淯
- 世祖・武成帝 高湛
- 任城王 高湝
- 陽康穆王 高湜
- 博陵文簡王 高済
- 華山王 高凝
- 馮翊王 高潤
- 漢陽敬懐王 高洽
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