黒田光之
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黒田 光之(くろだ みつゆき、1628年6月17日(寛永5年5月16日)-1707年6月19日(宝永4年5月20日))は、筑前国福岡藩の第3代藩主。父は第2代藩主・黒田忠之(光之は長男)。母は坪坂氏(養照院)。正室は小笠原忠真の娘・宝光院。側室は村上氏、河合氏など。子に綱政、長清、娘(酒井忠挙室)、娘(黒田長重室)。官位は従四位下、右衛門佐、右京大夫。
寛永5年(1628年)5月16日、筑前早良郡橋本村の別邸にて生まれた。なぜこのようなところに生まれたかといえば、父の忠之が生母の坪坂氏を嫌って家老の黒田一貫のもとに預けていたからである。承応3年(1654年)、父の死去により家督を継いだ。すでに福岡藩の財政は忠之末期から窮乏化が始まっていたため、光之は厳しい倹約令を出して藩政改革に取り組んだ。光之は武断よりも文治を好み、貝原益軒に命じて『黒田家譜』を編纂させ、それまでの保守的な重臣を遠ざけて新参に過ぎない鎌田昌勝や立花重根を家老として新たに登用した。
しかし後継ぎにおいて延宝5年(1677年)2月、嫡男であった黒田綱之を廃嫡して四男で東蓮寺藩を継いでいた黒田綱政(長寛)を後継ぎと新たに定めたが、これが原因で家老が処分されるなど、藩内に大きな混乱をもたらす羽目となった。なお、この間天和2年(1682年)には朝鮮通信使の接待を担当している。元禄元年(1688年)12月9日、綱政に家督を譲ったが、晩年にはその綱政とも対立している。宝永4年(1707年)5月20日、福岡にて死去。享年80。法号は江竜院淳山宗真。大きな口を開けて大喝する姿を描いた肖像が現存しており、激しく強い性格であったことが窺える。
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