鼠小僧
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鼠小僧(ねずみこぞう。「ねずみ小僧」とも表記。寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は江戸時代後期、化政時代に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名、次郎吉(じろきち)。合わせて「鼠(ねずみ)小僧次郎吉」と称される事もある。本業は鳶職であったと言われ、義賊の伝承で有名な人物。
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[編集] 鼠小僧の義賊伝説
鼠小僧の伝説を要約すると「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与える」というものである。事実、彼がつかまった後で役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭は殆ど発見されなかった。傍目から見ると、彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものである事から、盗んだ金の行方について噂になり、この様な伝説が生まれたものと考えられる。
しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金の殆どは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。
鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組む事無く一人で盗みに入った事から、江戸時代における反権力の具現者として祭り上げられた。
ただし鼠小僧自身にその様な意図は全く無く、当時は大名屋敷の警備が非常に手薄であった為、江戸に於いて最も大金を盗み易い種類の家であったと言うだけの理由であった(町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締め付けや、謀反の疑いを幕府に抱かせる惧れがあるという理由で、警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面だけは必死に守る為に被害が発覚しても公にし難いという事情もあった)。
[編集] 捕縛・判決・処刑
鼠小僧が捕らえられたのは、天保3年(1832年)5月8日の浜町の松平宮内少輔屋敷と言われている(諸説あり)。
実は1825年にも一度捕まっており、追放刑が出ていたが、これは被害届が存在しなかった為実行されなかったと考えられている。
盗んだ金銭の総額についても諸説が存在しており、はっきりと定まった金額は未だに不明である。
北町奉行・榊原忠之によって出された判決は市中引き回しの上での獄門(磔串刺)。この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は武士階級の面子を潰された恨みの産物という見方も出来る。処刑は鈴ヶ森にて行われた。
当時の処刑は連座制が適用されていたが、次郎吉は勘当されている為に親兄弟とは縁が切れており、数人いた妻にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していた為、天涯孤独の身として刑を受けた。 この、自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませた、という点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因の一つとなっている。
墓は、両国の回向院(えこういん)にある。また、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも、義賊に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。『鼠小僧の墓石を持っていると博打で勝てる』という俗信から、現在墓石はすっかり砕かれてしまっている。
[編集] 鼠小僧を扱った創作物
[編集] 小説
他、多数
[編集] 漫画
[編集] キャラクター
[編集] 映画
[編集] テレビドラマ
他、多数