おりょう
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おりょう(1841年7月23日(天保12年6月6日)-1906年(明治39年)11月15日)は、坂本龍馬と結婚した女性。名は楢崎龍(ならさき りょう)。
1841年、医師の楢崎将作の長女として生まれた。父の将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ、獄死している。このため、お龍と母、そして幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍はそれを養うために旅館・扇岩で働いた。しかし間もなく旅館を辞めて天誅組残党の賂いとなる。しかし天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった。このとき坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することとなったのである。1866年、薩長同盟の成立を悟った新撰組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸のままで風呂から出て龍馬に危機を知らせて救っている。その直後、龍馬と結婚し、薩摩藩へ新婚旅行(一説には龍馬の怪我の養生)を楽しんでいる。これが日本最初の新婚旅行であったといわれている。
1867年、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商の伊藤助太夫のもとにいた為一難を逃れた。
龍馬死後、龍馬の姉・坂本乙女の元に身を寄せたが、間もなくそこを去って各地を放浪。両者の不仲がその原因と目された。その後商人の西村松兵衛と再婚したが癒える事なき龍馬喪失の悲嘆から晩年はアルコール依存症状態であったと伝えられる。1906年、横須賀にて66歳で死去している。龍馬・西村いずれの夫との間に子はなかった。
ちなみにお龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、知らされるまで彼の業績を知らずにいた。全てを知るのは明治政府から伝えられたときだったという。
龍馬と同じく土佐藩士であった佐々木高行は、お龍のことを「大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。ただ、悪人でないことは確かである」と評している。おりょうの墓には「贈正四位坂本龍馬…」と龍馬の妻として墓碑が刻まれている。