アクセル・オクセンシェルナ
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アクセル・グスタフソン・オクセンシェルナ(Axel Gustafsson Oxenstierna, 1585年6月16日 - 1654年8月28日)伯爵は、スウェーデンの宰相、政治家、軍人。スウェーデン・ヴァーサ朝のグスタフ2世アドルフとその娘クリスティーナに仕えた名宰相。三十年戦争によって、スウェーデンの大国時代を作り上げた影の主役。
オクセンシェルナは1612年になった。1611年に開始されたカルマル戦争終結において重要な役目を果たし、名君グスタフ・アドルフと共に戦場を駆けめぐり、重臣として片時も離れる事がなかった。内政面でも主君を支え続けた。グスタフ・アドルフは軍事的天才であったが、短気で血気盛んな面を持ち合わせていた。しかしオクセンシェルナの手腕によって事無きを得る事も多かった。まさにグスタフ・アドルフが軍事的資質を発揮できたのも、オクセンシェルナあってこそだと言えるだろう。この二人の性格をよく表した逸話として、「オクセンシェルナよ。人が皆おまえのように冷静であったら世界は凍り付いてしまうな」「人が皆、陛下のように短気であれば、世界が燃え尽きてしまいます」という会話が伝えられている。
ドイツで三十年戦争が始まると、スウェーデンはルター派プロテスタントに救いの手を差し伸べて宗教戦争に介入する。ここでグスタフ・アドルフは旧教軍をことごとく破り、獅子王の勇名を馳せる事になる。
1632年11月6日、復帰した神聖ローマ皇帝軍のヴァレンシュタイン将軍とグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍が激突(リュッツェンの戦い)。後方から攻め込まれたグスタフ・アドルフは、弾雨の矢面に立たされる事になり、銃弾を浴びて落馬する。主君の遺体目がけてヴァレンシュタイン軍が殺到すると、スウェーデン軍は亡骸を奪われまいと混戦を繰り広げた。オクセンシュルナは主君の戦死によって指揮権を継承したザクセン・ヴァイマール公ベルンハルトを補佐し、激戦の末、見事皇帝軍を撃破するのである。しかしヴァレンシュタインを潰走させただけでは、偉大な名君の死は、勝利をもってしても償う事が出来なかった。
グスタフ・アドルフの死後、オクセンシェルナはグスタフ・ホルンら同僚の将軍にスウェーデン軍の指揮を任せ、本国に帰還する。オクセンシェルナは、主君の遺子クリスティーナを王位に就け摂政団の中心となって、スウェーデンの国政を取り仕切った。オクセンシェルナは、王を失い弱体化したスウェーデン軍の劣勢を救うべくプロテスタント諸侯を糾合しハイルブロン同盟を結成するなど、スウェーデンを間違う事なく導き、三十年戦争の勝利を演出し、見事大国の座を勝ち取るのである。その中でも反ハプスブルクを掲げながらも側面支援に留まっていたフランスを参戦させたことは見事な手腕といえる。フランス・スウェーデン戦争では、三十年戦争を影から操るなど、スウェーデンの勝利に多大な貢献した。
晩年のオクセンシェルナは必ずしも幸福ではなかった。カトリックとの融和路線をとった主君クリスティーナは、グスタフ・アドルフの政策を引き継いで対決姿勢を崩さなかったオクセンシェルナを遠ざけ、実の娘は、父ほど有能ではなく、次第にスウェーデン政治の中心から離れていった。
オクセンシェルナは、主君の遺児クリスティーナ女王が、スウェーデンに君臨するのを見届けつつ引退した。そしてスウェーデンが三十年戦争の講和条約ヴェストファーレン条約によって北方の覇権を確立し、バルト帝国の座に君臨するのを見届けながら、1654年にこの世を去った。
スウェーデン王グスタフ2世アドルフが名声を残す事が出来たのもこの名宰相のおかげであった。グスタフ・アドルフとオクセンシェルナはお互いに敬愛していた間柄であった。今日のスウェーデンの首都ストックホルムに、グスタフ・アドルフス広場があり、グスタフ・アドルフとそれを下から仰ぐオクセンシェルナの銅像がある。この二人こそ近代スウェーデンを造り上げた英雄であったと言える。
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