アンナ・クルニコワ
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アンナ・クルニコワ |
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基本情報 |
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英語名 | Anna Kournikova |
フルネーム | Anna Sergeyevna Kournikova |
国籍 | ロシア |
出身地 | 同・モスクワ |
生年月日 | 1981年6月7日 |
身長 | 173cm |
体重 | 56kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 |
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デビュー年 | 1995年 |
ツアー通算 | 16勝 |
シングルス | 0勝 |
ダブルス | 16勝 |
4大大会最高成績 |
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全豪 | ベスト8(2001) |
全仏 | 4回戦 |
全英 | ベスト4(1997) |
全米 | 4回戦 |
キャリア自己最高ランキング |
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シングルス | 8位 |
ダブルス | 1位 |
Template |
アンナ・クルニコワ (Anna Kournikova, А́нна Серге́евна Ку́рникова, 1981年6月7日 - )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。美貌から絶大な人気を誇り、「コートの妖精」と呼ばれている。シングルス自己最高ランキングは8位。ダブルスでは通算16勝を挙げる。
5歳からテニスを始め、モスクワ市内にある名門「スパルタクラブ」でテニスを学ぶ。(同じ年の幼なじみとしてアナスタシア・ミスキナやエレナ・デメンティエワがいた。)早熟な才能はたちまち評判になり、1992年2月からアメリカ・フロリダ州の「ニック・ボロテリー・テニスアカデミー」に留学した。ジュニア時代には1995年の「オレンジボウル選手権」の優勝などがある。同年に14歳でプロ転向。
1996年の全米オープンで、クルニコワは15歳で4大大会にデビューを果たす。予選を勝ち上がり、本戦の4回戦で第1シードのシュテフィ・グラフに挑戦して鮮烈なデビューを飾った。1997年のウィンブルドンでベスト4に進出し、準決勝でマルチナ・ヒンギスとの“16歳対決”に敗れる。1998年3月の「リプトン国際選手権」でWTAツアー初の決勝進出を果たすが、ヴィーナス・ウィリアムズとの“10代対決の決勝”に敗れた。同年6月中旬、ウィンブルドン選手権の前哨戦・イーストボーンの準々決勝で、長期の故障から復帰したばかりのシュテフィ・グラフを 6-7, 6-3, 6-4 のフルセットで破った。ところが、この試合中にクルニコワは指を痛め、ウィンブルドンの出場断念を余儀なくされた。
その後、クルニコワのテニス成績は期待されたほど伸びず、4大大会のシングルスではほとんど4回戦止まりであった。1999年全豪オープンの2回戦では、日本の佐伯美穂との対戦中に「31本」のダブル・フォールトを出したことがあり、サービスの不安定さが彼女の課題であった。1997年ウィンブルドンベスト4以後の4大大会成績は、2001年の全豪オープンベスト8がある。ずばぬけた美貌とゴシップの多さで長い間女子テニス界の人気ナンバー1を誇ったが、女子テニスツアーでのシングルス優勝はない。
ダブルスでのクルニコワは、全豪オープンで1999年と2002年の2度女子ダブルス部門で優勝がある。パートナーはどちらも親友のマルチナ・ヒンギスと組んだ。クルニコワとヒンギスのペアは、1999年全仏オープンの女子ダブルス決勝でヴィーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹組に敗れた準優勝もある。混合ダブルスでは、クルニコワは1999年のウィンブルドンでヨナス・ビョークマン(スウェーデン)と組み、2000年の全米オープンではマックス・ミールヌイ(ベラルーシ)と組んで活躍したが、どちらも準優勝止まりに終わった。
モデルとしても絶大な人気を誇り、彼女が表紙を飾るファッション雑誌類は普段の号よりもはるかに多く売れるという。インターネット・ブラウザの検索希望数ではマイケル・ジョーダンやタイガー・ウッズをさえ上回った時期があった。2001年初頭には彼女の人気につけこんで「クルニコワ・ウイルス」(ファイル名「AnnaKournikova.jpg」のコンピュータウイルス)がインターネット上に流されたほどである。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- アンナ・クルニコワ公式ホームページ
- アンナ・クルニコワ - WTAツアーのプロフィール(英語)