アンヌ・ド・モンモランシー
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アンヌ・ド・モンモランシー(Anne de Montmorency, 1492年3月15日-1567年11月12日)は、フランスの軍人。数々の軍功を挙げた。なお、「アンヌ」はフランスではありふれた女性名であるが、この人物は男性である。
1492年にシャンティイで生まれた。ラヴェンヌの戦い(1512年)、マリニャンの戦い(1515年)、メジエールの戦い(1521年)などで軍功を挙げ、元帥に叙せられた。
1525年のパヴィーアの戦いで捕虜となり、身代金と引き換えに解放された。フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の緒戦を終結させたマドリード条約締結(1526年)の際には交渉に当たった。
マドレーヌ・ド・サヴォワと結婚した時には、フランソワ1世からフェール=アン=タルドノワ城を下賜されている。
1536年にはカール5世の侵攻からプロヴァンスを守り、その功で翌年宮内大臣の地位についた。しかし、1541年に国王の寵妃アンヌ・ド・ピスルーと対立したことから、国王の信任を失った。
とはいえ、その後も国王アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世らに仕えた。アンリ2世亡き後には、カトリーヌ・ド・メディシスの腹心の一人として、不安定な王権を支えた。1563年のアンボワーズの和議の調印にも貢献したが、1567年のサン=ドニの戦いで致命傷を負い没した。