イェスデル
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イェスデル(Yesüder, ? - 1391年?)は、北元時代モンゴルのハーン。モンゴル語の尊号はジョリグト・ハーン。漢字表記は也速迭児。
元のクビライとハーン位を争ったアリクブケの後裔で、アリクブケが分与されたウルスを引き継ぎ、モンゴル高原の西部に勢力をもっていた。1388年、高原東部のホロンボイル地方ブイル・ノールで北元のトグス・テムル・ハーンが明の将軍藍玉に大敗するとハーンに対する反乱を起こし、わずか16騎でカラコルムを目指して落ち延びていたトグス・テムルをトーラ川の河畔で突如襲撃した。ハーンはわずかな従者とともに逃げ延びたが、イェスデルの軍はさらに追撃してこれを捕らえた。イェスデルはトグス・テムルを縊り殺すと、自らハーンに即位し、先祖アリクブケがトグス・テムルの先祖クビライとハーン位を争ってより百数十年ぶりにアリクブケ家にハーン位を取り戻した。
イェスデルはハーンに即位した頃には、明との度重なる敗北と内紛のために北元のモンゴル勢力は大幅に後退し、多くの王族や貴族が明に降ってしまっていた。さらにイェスデルがハーン位を簒奪してから間もない1391年から数年のうちに没すると、その諸子が相次いで即位するがやがてアリクブケ一門の間でハーンを巡る争いが起こるようになり、モンゴルの混乱は深まった。
イェスデルによりクビライ以来のハーンが断たれたため、明は北元の勢力を従前のように元と呼ぶのをやめ、かわって韃靼(タタール)と呼ぶようになった。また、イェスデルらアリクブケ家の歴代当主と縁戚関係にあったケレイトやバルグトなどの諸部はオイラトを中心に部族連合を組み、東方のクビライ家恩顧のモンゴル王族・貴族の支配する諸部と争うようになる。