イオニアの反乱
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イオニアの反乱(イオニアのはんらん、Ionian revolts)は、 アケメネス朝の支配に対して、ミレトスを中心とするイオニア地方のポリスが、紀元前498年から紀元前494年にかけて起こした反乱。
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[編集] 原因
イオニアの都市国家はギリシアの古い植民都市であったが、アナトリア半島で繁栄したリディアと経済的な繋がりが深く、これに支配されていた。このため、アケメネス朝のリディア侵攻に対して、大王キュロスからリディアより離反するよう勧告されていたが、ミレトスを除くイオニアの諸都市はこれに耳を貸さなかった。リディア侵略の後、キュロスはイオニアへの侵攻を優先しなかったが、リディア人パクテュエスの反乱にプリエネステとマグネシアが加わったため、ペルシア軍はこれを鎮圧、イオニア地方を征服した。
ただし、ペルシアは各都市国家に僭主を置いて内政に干渉したものの、それほど過酷な支配は行わず、衰退していたミレトスなどは、むしろ繁栄を取り戻してイオニアの華と讃えられた。
当時、 エーゲ海の制海権をめぐってギリシアのポリス間に抗争があったが、ミレトス僭主アリスタゴラスは、エーゲ海中央部で最も強い勢力を持つナクソス島の内乱に武力介入してキクラデス諸島に影響力を拡大することを目論んだ。サルディスのペルシア総督アルタプレネス もこれに同調して、軍事力を提供した。
紀元前499年には、ダレイオス1世の従兄弟メガバデス率いるペルシアの三段櫂船200隻がイオニアに派遣された。当初、この艦隊はヘレスポントスに向かう航路をとってナクソスの目を欺こうとしたが、アリスタゴラスとメガバデスの不和により目的が露呈したため、ナクソスに本土防備の猶予を与えることになった。ナクソスは強固な市壁と山に囲まれた難攻不落の都市で、ギリシア本土から商人船を利用した補給を確保して籠城したため、包囲戦は4ヶ月に渡って続き、ペルシア軍は軍資金欠乏によって撤退を余儀なくされた。
ミレトスはナクソス遠征に際しても多額の戦費を負担したが、遠征が失敗に終わり、資金の回収が困難になったことから、その地位に不安を覚えたアリスタゴラスはペルシアに対して反乱を企てた。彼は、イオニアにある主要な都市国家の僭主を捕えて追放し、民主制を敷くことで市民の歓心を買うと、スパルタ王クレオメネスに援軍を求めた。しかし、この交渉が決裂したため、アリスタゴラスは アテナイに援軍の要請を行った。
当時のアテナイは、スパルタ、アイギナ、ボイオティア、テーバイと敵対する四面楚歌の状況にあった。このため、アテナイの政治的指導者であったクレイステヌスはペルシアとの同盟を結ぼうとしたが、独立を唱えるアテナイ民会はペルシアへの服従を拒否した。さらに、アルタプレネスによって、アテナイが僭主制を打倒した際に追放されたヒッピアスの僭主復帰が発令されたことから、アテナイ民会はアリスタゴラスの要求に応じて、ミレトスの支援を決定した。
[編集] 反乱の経過
[編集] サルディス侵攻とエフェソスの敗戦
紀元前498年、アテナイ船団20隻と、これ以外では唯一支援を決定したエレトリアの船団5隻の増援はエフェソスでイオニア軍と合流し、サルディスに侵攻した。アルタプレネスはサルディスの下町を放棄し、市中心部のアクロポリスまで防衛線を後退させて援軍を待ったので、反乱軍は殆ど抵抗を受けることなくサルディス市街を占拠したが、その大部分は戦火によって焼け落ちた。
サルディスを攻めきれなかった反乱軍は、騎馬部隊を警戒してエフェソス近郊まで撤退したが、サルディス攻略の知らせを受けたペルシア騎兵隊に追撃され、大敗した。この敗北によって苦杯をなめたアテナイ、エレトリアの支援部隊は母国に帰還し、以後いかなる援助も行わなかった。しかし、イオニア反乱軍はなおも抵抗を続け、ビュザンティオンを占拠し、カリア(イオニア南部)、キプロスを同盟に加えるなど、小アジア全域に反乱を焚き付けた。
[編集] キプロスとカリアの反乱
キプロスはイオニアの反乱に乗じてペルシアからの独立を計ったが、唯一アマトゥスのみは、反乱に加わることを拒否した。このため反乱軍はアマトゥスを包囲したが、この包囲戦の最中にペルシア艦隊が来援したため、キプロス軍はイオニアの援軍とともにキプロス北部のサラミス近郊に布陣し、ペルシア軍を迎え撃った。サラミス王オネシロス率いるキプロス反乱軍は、海戦ではフェニキア艦隊を撃破し、陸戦ではペルシアの指揮官アルテュビオスを討ち取るなど、戦いを優位に進めたが、一部の部隊がペルシア軍に寝返ったために形勢が逆転し、キプロス、イオニアの反乱軍は敗走した。この後、キプロスの諸都市は包囲され、陥落した。
カリアでは、紀元前497年にペルシアの討伐部隊が来寇し、マイアンドロス川に合流するマルシュアス川で反乱軍との戦闘が行われた。長時間にわたる激戦の末、反乱軍はラブラウンダに敗走し、ゼウス・ストラテイオス神域に辿り着いた。しかし、ここでイオニアからの援軍を得ると、ペダソスの街道に進軍し、夜間、ペルシア軍を急襲してこれを殲滅した。
[編集] ラデ沖の戦い
カリアなどでは局地的な勝利があったものの、反乱軍はペルシア軍に圧倒された。首謀者のアリスタゴラスは反乱の失敗を予見し、トラキアを占拠してミュルキノスに逃亡しようとしたが、その途上、トラキア人によって殺されてしまった。
紀元前494年、ダレイオス1世はミレトス討伐のため、本格的に陸海軍を派遣した。これに対処すべく、反乱軍はイオニアにおいて会議を開き、艦隊のみを編成してミレトス沖のラデ島で艦隊決戦を行うことを合議した。
ペルシア海軍は、フェニキア船団を中核として、キプロス、エジプトなどから集結した艦隊を編成してラデ沖に侵入、ポカイア部隊の司令官ディオニュシオス率いるイオニア反乱軍と対峙した。デュオニュシオスは三段櫂戦による船間突破の戦法を行うためにミレトス人を訓練したが、彼らはこの訓練を厳しすぎるとして放棄した。サモス島の援軍はこの体たらくを嘆き、イオニアとの同盟を放棄することを決意した。彼らは戦闘が始まると早々に戦線を離脱し、レスボス島の部隊もこれに倣った。前線部隊ではヒオス島の船団のみがペルシア艦隊と果敢に戦ったが敗退、島嶼部の駆逐艦船を失ったミレトスの中核部隊は、ペルシア艦隊によって粉砕された。
[編集] イオニア都市の掃討
ラデ沖の戦いによって反乱軍は鎮圧され、敗退したイオニア諸都市と島嶼は、戦闘を離脱したサモス島を除いて徹底的に略奪された。紀元前493年、ペルシア軍は、島嶼部に対して曳き網式と呼ばれる掃討を展開し、小アジアの陸部の諸都市に対してはこれを攻略して、美貌の少年を去勢し、美女を王宮に送った。これら諸都市の神域は、サルディスのキュベレイ神殿を焼打ちされた報復として全て破壊され、焼かれた。ミレトスの陥落はギリシアにとって衝撃的なもので、ヘロドトスによると、主要な聖域は焼き打ちに遭い、男は全て殺され、女子供は奴隷としてスーサに送られ、ミレトスからミレトス人は消えた、とされる。
[編集] 反乱の影響
反乱の後、アルタプレネスはイオニア諸都市の代表者をサルディスに召喚し、紛争については司法手段によってこれを解決するとの相互協定を強制的に締結させた。さらに、徴税の体制が見直されたが、これは以前のものと大差なかったとされる。
反乱が鎮圧されたとは言え、ペルシア側は僭主を擁立して露骨に内政に干渉するという手段を撤回せざるを得なかった。経済の発展によって台頭する新しい社会階層を、僭主制によって圧殺することの危険性をペルシアが察知したためであると考えられる。反乱の後、ペルシアの支配下にありながら、イオニアでは民主制が敷かれた。
アテナイでは、イオニア反乱軍がエフェソスで大敗北を喫した後、一時的にペルシアとの宥和政策を進める派閥が発言力を持つようになった。しかし、反乱に加担したエーゲ海島嶼のポリスが熾烈な粛正を受けたことと、反乱の失敗によってギリシア本土が直接ペルシアの脅威に曝されることになったことから、アテナイ民会はペルシアへの宥和政策を一切放棄することになった。これにはペルシア討伐軍から逃れたイオニアの亡命者たちの訴えがいくらか影響しているものと考えられる。彼らはまた、ギリシアに、ペルシアへの過剰な恐怖心を植え付けることにもなるのである。
一方、イオニアの抵抗勢力を一掃したことによって、ギリシア本土に侵入する際の障害が取り除かれたペルシアは、アテナイがイオニアの反乱に加担したことを口実に、ギリシア本土の征服に乗り出した。紀元前492年には、マルドニオスが派遣され、ペルシア戦争の火蓋が切られた。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- Philip de Souza『The Greek and Persian Wars 499-386BC』Osprey Publishing ISBN 9781841763583
- ヘロドトス著 松平千秋訳『歴史(中)』(岩波文庫)ISBN 9784003340523
- 仲手川良雄著『テミストクレス』(中公叢書)ISBN 9784120032110
- 馬場恵二著『ペルシア戦争 自由のための戦い』(教育社)