ウラル核惨事
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ウラル核惨事(ウラルかくさんじ)は、1957年9月29日、ソ連ウラル地方カスリ市の北100kmにあるクイツシム町にある「チェリヤビンスク65」という施設(マヤク核コンビナート)で起こった原子力事故。200万キュリーの放射能が飛散した。別名、キシュテム事故。
工場は1948年から建設され、原爆用プルトニウム生産用原子炉を持つ 。高レベルの硝酸アセテート廃液の入った液体廃棄物貯蔵タンクの除熱制御系システムが故障したために、乾燥・加熱による化学反応から爆発がおこった。
爆発規模はTNT火薬70t相当、高さが1,000mあったため南西の風に乗り北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域が放射能汚染され、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを被曝した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。
また放射性廃棄物貯蔵所でもあった「イレンコの熱い湖」(カラチャイ湖)では放射性ストロンチウム90で汚染されていたが、1967年春に湖底が干上がって乾燥し、放射性物質を含む砂や泥が舞い上がり周囲に飛散し被害を拡大させた。
事故は旧ソ連で起こったために極秘とされたが、1958年情報が流れた。1976年11月ソ連の亡命科学者ジョレス・A・メドベージェフが英科学誌「ニュー・サイエンティスト」に掲載した論文で再び脚光を浴びた。 彼はその後『ウラルの核事故』(日本語訳有り)を出版する。情報公開法により公開されたCIAの生の情報が掲載されている。
1989年9月20日になって、グラスノスチ(情報公開)の一環として、外国人(日本人5人)記者団に公開され、資料も提供された。