エルネスト・ハビエル・チェバントン
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エルネスト・ハビエル・チェバントン(Ernesto Javier Chevantón、1980年8月12日 - )は、ウルグアイ・フアン・ラカーセ出身の同国代表、リーガ・エスパニョーラ・セビージャFC所属のサッカー選手(FW)。
ニックネームは「チェバ」、フランスではそのファンキーな性格と野性的なプレースタイルからか「アニマル」と呼ばれることも。
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[編集] 経歴
12歳の時アルバロ・レコバやファビアン・カリーニ等を輩出したウルグアイのクラブ、ダヌービオの下部組織に入門。育成に定評ありと言われるこのクラブで成長した彼は2000年の国内リーグで30試合32得点と言う驚異的なゴール数を叩き出し、様々なクラブの耳目を集めることとなる。年が2001年に移っても変わらずゴールを量産し続ける彼に数々のオファーが舞い込んだが、彼は最終的にイタリア・セリエAのUSレッチェを選択。2001年夏に移籍する。
レッチェに移籍した最初のシーズンでチームは降格の憂き目に遭うが、チェバントン自身は27試合に出場して12ゴールを挙げ、イタリアの地でもその優れた得点能力が通用することを証明した。クラブがセリエBに落ちた後も彼は残留を選択し、16ゴールを決めて翌シーズンの1部復帰に貢献。1部復帰となった2003-2004シーズンで30試合18得点と大活躍し、レッチェ躍進の起爆剤となった。
その活躍を見込まれてフェルナンド・モリエンテスやリュドビク・ジュリの後釜を探していたディディエ・デシャン監督率いるASモナコのオファーを受け、2004-2005シーズンからはASモナコに移籍。活躍をフランスリーグ、そしてチャンピオンズ・リーグと言う場に移した。しかしイタリアで見せたようなインパクトをフランスではなかなか見せることが出来ず、チームの不振とリンクするように彼も膝などにケガを頻発させてしまう。彼が慕ったデシャン監督の2005-2006シーズン途中での辞任もありチームを離れるかと噂されたが、それを否定し2006年3月に膝の手術から復帰。以来リーグ戦でコンスタントにゴールを挙げ続け(05-06シーズン最後の10試合で8ゴール)、最終的には10ゴールをマーク。欧州リーグ在籍の5シーズン全てで2桁得点を達成した。
こうして度重なるケガで失われかけた才能のきらめきを蘇らせた彼は、2006年夏の移籍市場でスペインリーグ1部の名門・セヴィージャFCのオファーに応じ、次なる挑戦の舞台をスペインに移す事となった。
ウルグアイ代表にも何度か招集されているが、フォサーティ・ウルグアイ代表監督(当時)の起用方法などに不満があったためか「彼がウルグアイ代表の指揮を執る限り招集を拒否する」旨の発言を2005年10月に行い、長らく代表から遠ざかっている。ウルグアイが2006年ワールドカップの出場権を逃したことでフォサーティ監督が引責辞任したため、チェバントンの代表復帰がどうなるのかも注目される。
[編集] プレースタイル
体格にはそれほど恵まれていないが、鋭い動き出しでディフェンスラインの裏を衝きつつパスを呼び込むことも、軽快なドリブルでディフェンダーをかわして単独突破を図ることも出来る万能ストライカー。多少の体格的ハンデをモノともせず、放り込まれるクロスにヘッドでも対応出来るスペースへの嗅覚の鋭さ、そしてペナルティエリア内での冷静さも特筆に値する。キック力も強くフリーキックの名手と言われるが、実はウルグアイでは一度もフリーキックを蹴ったことがないとは本人の談。レッチェに移籍した当時の監督、デリオ・ロッシの指導で開眼したとのこと。アルバロ・レコバがいなければ彼が蹴っているであろう。
[編集] 所属チーム
[編集] 外部リンク
セビージャFC - 2006-2007 |
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1 パロップ | 2 ハビ・ナバーロ | 3 ダビド | 4 ダニエウ | 5 ドゥダ | 6 アドリアーノ | 7 チェバントン | 8 ポウルセン | 9 ケルジャコフ | 10 ルイス・ファビアーノ | 11 レナト | 12 カヌーテ | 13 コベーニョ | 14 エスキュデ | 15 ナバス | 16 プエルタ | 18 マルティ | 19 ドラグティノヴィッチ | 20 アイトール・オシオ | 22 フェルナンド・サレス | 24 ヒンケル | 25 マレスカ | 27 アルファロ | 32 ファシオ | 監督 ラモス | |