カイ通
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蒯通(かい・つう、もしくは、かい・とう 生没年不明)は、秦末から前漢初期にかけての説客。本名は「徹」であるが、武帝の名と同じであるので、同じ意味を持つ、「通」に後世、改められた。
楚漢戦争期、燕王臧荼(ぞうと)に仕えていたが、漢王劉邦から北伐の命を受けた大将軍韓信への降伏の使者として、韓信のもとを訪れ、以後、韓信の幕僚として仕える。
韓信が斉王田広を攻めた際に、既に劉邦からの使者・酈食其(れきいき)が田広を降伏させているにも関わらず、劉邦から撤退の命を受けていないと強弁して、韓信に既に軍備を解いている斉に攻め込ませ、酈を死に追いやるものの、斉の平定を成功させた。それから間もなく、韓信を説いて、劉邦に韓信の斉王即位を認めさせ、さらに韓信を自立させ、劉邦(漢)、項羽(楚)に対抗出来る第三勢力の首領にし、ゆくゆくは天下を狙わせようと図るも、韓信はこれに乗らず、このままでは、自分が韓信に劉邦への謀反を勧めたとして、誅殺されかねないとして、発狂した風に装って、韓信のもとから離れた。
紀元前196年、韓信が謀反の罪で処刑され、その際に韓信が、
「あの時に、蒯通の言うことを聞いていれば、こうはならなかっただろう。」
と、愚痴ったことが劉邦に報告されると、劉邦は蒯通も謀反の片割れであるとして、蒯通を捕らえさせた。
劉邦が言う。
「お前か?韓信に余計な知恵をつけたのは。」
蒯通が応える。
「そうです。」
劉邦は側近達に言う。
「この謀反人を釜茹でにしてしまえ。」
蒯通が言う。
「陛下、私を釜茹でにしたければ、そうなされば良いでしょう。ですが、その前に一言言わせてください。私が韓信に謀反を勧めた時、私は陛下の臣下ではなく、韓信の家臣でした。家臣が主君のために謀略を企てるのは当然の務めです。しかし、あの頃は、誰もが天下を狙い、その者の臣は誰もが主の為に謀略を考えていました。若し、このことをお咎めになるのでしたら、この世の中の誰も彼もが謀反人となってしまいますが、陛下はいかがなされますか?」
劉邦は、蒯通の答えを良しとして、蒯通を釈放したという。