ゲンナジー・ヤナーエフ
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ゲンナジー・イワノヴィッチ・ヤナーエフ(Геннадий Ива́нович Янаев、Gennadii Ivanovich Yanayev、1937年8月26日 - )は、ソビエト連邦の政治家。ソ連副大統領。1991年のソ連8月クーデターの首謀者の一人。ロシア人。
1937年8月26日ゴーリキー州(現在のニジニ・ノヴゴロド州)ペレヴォース地区ペレヴォース村に生まれる。ゴーリキー農業大学を卒業する。1959年ゴーリキー州技術修理機械化部に勤務する。1962年ソ連共産党に入党する。その後、全ソ通信制教育法科大学を修了し、歴史学博士候補号を授与される。1963年コムソモール活動に専従職員として参加。ゴーリキー州コムソモール第一書記を経て、1968年ソ連青少年団体委員会議長に選出された。
その後、労働組合活動に移り、全ソ労組中央評議会書記、副議長を経て1990年議長を務めた。
1990年12月ミハイル・ゴルバチョフ大統領は大統領制を導入するに当たって、当初、副大統領候補として念頭に置いていたのは、外相としてゴルバチョフを支えてきたエドゥアルド・シェワルナゼであった。しかし、シェワルナゼは独裁の危機を訴えて外相を電撃的に辞任した。代わってゴルバチョフが副大統領候補に持ち出したのがヤナーエフである。
クーデターの前年にあたる1990年7月のソ連共産党大会で中央委員に選出され、その後、政治局員兼書記に選出された。ソ連人民代議員でもあり、人民代議員大会の最大会派「共産主義者」の議長であった。
人民代議員大会で副大統領に選ばれた際には、第1回投票では急進改革派や独立志向の強い共和国から選出された代議員の反対で当選に必要な得票を獲得できなかったが、シェワルナゼに去られ焦燥するゴルバチョフがヤナーエフの選出に固執し、選挙のやり直しを強硬に求めたため、再投票の結果、副大統領に選出された。副大統領就任に伴い政治局員を解任。ゴルバチョフは、ヤナーエフが議会における最大会派の代表であったことと、上の者の命令に忠実な点、さらに豊富な訪日歴(12回ないし13回とされる)に代表される国際交流経験・交渉力を買われたが、政治的には保守派であり、エゴール・リガチョフ元政治局員、ウラジーミル・クリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長と並んでレオニード・ブレジネフ元書記長の流れを汲む保守派の中心人物と見られていたが、この観測は的を射ていた。
ゴルバチョフが1991年に再び改革派に舵を切り、新連邦条約の調印を決定した上で、クリミア半島フォロスの大統領別荘に出かけて不在中に謀議し、クーデターを敢行。国家非常事態委員会を組織し、ゴルバチョフが健康悪化により、大統領職を遂行することが困難な状況であると発表し、自らは大統領代行に就任した。しかし、結局、クーデターは3日間で失敗に終わり、ヤナーエフは逮捕された。
1994年ロシア下院の恩赦決議により釈放。
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