サラワケット越え
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サラワケット越え(サラワケットごえ)は、太平洋戦争のニューギニア戦役における、日本軍第51師団のラエからの転進作戦である。
1943年9月、ラエで包囲された第51師団は、標高4,100メートルのサラワケット山系を越えて転進した。転進には成功したものの、約1か月をかけた山越えは数多くの犠牲者を伴った。
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[編集] 背景
1943年9月、東部ニューギニアのラエ周辺で戦ってきた日本軍第18軍第51師団(「基」兵団)は、ラエ・サラモアの戦いに敗れ、制海権・制空権も完全に奪われてオーストラリア軍第3、第7、第9師団に包囲される形となった。第51師団長中野英光中将は玉砕戦を準備したが、安達司令官の転進命令を受け、ラエからの転進を決行した。
転進経路としては、マーカム川を遡りマダンに至るルートと、フォン半島の脊梁山脈であるサラワケット山系を越えて半島北岸のキアリに至るルートとが考えられた。前者は、制空権を奪われている状況では、マーカム川沿いに降下したオーストラリア軍に側面を衝かれ全滅させられる危険がある。後者は、オーストラリア軍の追撃をかわすことができるが、標高4,100メートルのサラワケット山系を越える道である。直線距離にすればラエからキアリまで120キロであるが、ジャングルや湿地帯や断崖峡谷を越えて、道なき道を進むとすれば、距離は2倍から3倍にもなると予想せねばならない。
日本軍の中には過去に一度サラワケット山系を越えた者がいた。1943年3月半ば、ラバウルからラエへの増援を企図した第八十一号作戦が失敗(ビスマルク海海戦)したため、日本軍はフォン半島北岸からサラワケット山系を越えてラエへの補給が可能かどうか調査を行うこととし、ニューブリテン島ツルブで飛行場建設中だった独立工兵第30連隊の連隊長村井荘次郎中佐は、北本正路少尉を隊長とする50名の特別工作隊を派遣した。北本少尉は慶應義塾大学陸上部出身で、マラソン選手として1932年のロサンゼルスオリンピックにも日本代表として出場したことがあった。
北本工作隊は3月13日にツルブを出発、キアリまで航行し、キアリで100人の原住民運搬夫の応援を得て、サラワケット越えの山岳地帯に入った。進むにつれて地形は想像を絶するものとなった。切り立ったような断崖や岩場を、ロープを伝って通り抜けた。山頂では赤道直下にもかかわらず氷点下の気温となり、腰巻を身につけているだけの原住民は寒さに震えた。ラエに無事到着したのは4月3日、出発してから22日目であった。北本少尉は、サラワケット越えは補給路としては使えないが兵隊が越えられない道ではないと報告し、またその健脚ぶりによって山中の原住民からも尊敬を受け、友好関係も結んだ。
中野師団長はサラワケット越えの転進を選択した。同行する部隊は、第51師団(歩兵第66、第102、第115連隊、工兵第51連隊、野砲兵第14連隊、輜重兵第51連隊基幹)、第41師団歩兵第238連隊の一部、南海支隊の生き残り(独立工兵第15連隊)、独立工兵第30連隊、海軍の第7根拠地隊、佐世保第5特別陸戦隊などであった。人数は第51師団が3,900名、他部隊2,100名、海軍2,500名、総勢8,500名であった。
[編集] 経過
日本軍は1日の行程を16キロと予想し、サラワケット山系を越えてキアリまで16日間と見込んだ。各人が持てる食糧は10日分が精一杯だったが、これを食い延ばせばなんとかなるという計算だった。9月12日、右進路工作隊(工兵第51連隊)と右縦隊第1梯団(海軍第7根拠地隊)がラエを出発、15日に第2梯団(歩兵第66連隊、他)、第3梯団(歩兵第102連隊)、収容隊(歩兵第115連隊、独立工兵第15連隊)、左進路工作隊(独立工兵第30連隊)、左縦隊(歩兵第238連隊、他)が出発した。
15日、ヤル付近で第1梯団の前衛がオーストラリア軍と遭遇した。転進計画は早くも変更され、オーストラリア軍の監視を避けるために密林を伐採しながら進むことになった。17日、川幅200メートルのブス川の急流にぶつかり、工兵隊が一昼夜かけて苦心して架けた丸太橋を渡った。標高500メートルのケメンから次第に急な登りとなり、岩角や木の枝を踏み、草の根を掴んでよじ登った。落伍者が相次ぎ、後からくる者は落伍者の無残な死体に出会った。
野砲兵第14連隊長渡邊左之大佐は、山越えに際して最小限山砲一門だけは搬送する決心をしていた。砲兵連隊の将兵は代わる代わる数人で協力しながら90キロを超える山砲の砲身を担いだ。だが自己の食糧すら十分に持っていけない将兵にとってこれは容易なことではなかった。中野師団長は将兵の苦痛を黙視することはできず、遂に師団命令で山砲の放棄が命ぜられた。
登り最後の小集落アベン(標高3,000メートル)から先は大断崖が連なり、手が届きそうな対岸に渡るのに丸一日かかった。腕の力が抜けたり足を滑らせて谷底へ転落する者もいた。助けることはできない。みな自分の体を支えるのに精一杯なのである。ラエ出発から既に2週間がたっていた。ほとんどの者は食糧が尽きかけており、途中の集落の畑から芋を盗み、あるいは木の芽や草の根を食べてしのいだ。栄養失調者やマラリア患者が山頂を超えられずバタバタと倒れた。
山頂は一面の大草原で、名も知れない高山植物が華やかに咲き乱れていた。だが、その傍らには疲れ切り息絶えた死者の姿が延々と連なっていた。山頂ではみぞれ混じりの冷風が吹きつけ、夜に入ると気温は零下20度にもなった。火を焚こうにも焚きつけがなく、遂に小銃の銃床を一丁壊して焚きつけとした。寒気をしのげなかった者は5名、10名と一団となって凍死した。
下りも安全ではなかった。高さ500メートルもある階段状の断崖では転落者が続出した。食糧も尽き、餓死者が多く出た。ラエ出発から3週間、キアリから救援部隊が食糧と医薬品を担いで登ってきた。兵は何日かぶりの飯と粉味噌と塩をもらい、ようやく生き返った。
[編集] その後
転進した部隊の中で、先行していた最初の2名がキアリに到着したのは9月23日であった。9月中に海軍の先行部隊65名も到着した。その後10月末までにキアリに到着した人数は陸軍5,565名、海軍1,762名と報告されている。うち987名は直ちに入院あるいは後送が必要とされた。
落伍者の人数は、参加者の回想によればアベンまでで800名、山頂付近で800名、下りで700名とされている。しかしラエを出発した人数と到着人数との差し引きは1,106名となる。出発人数に検討の余地が存在するので、落伍者の人数は確定はできないであろう[1]。
第51師団将兵の苦難はこれで終わりではなかった。ようやく到着したキアリもまた連合軍に包囲され、フィニステル山脈を縦走してマダンへ脱出することになる。さらに、連合軍のニューギニア西部への上陸を受けて、第18軍は今度はセピック川河口の大湿地帯を横断して、決死のアイタペの戦闘(昭和19年8月、米国公刊史 Amazing Resistance of Japs,:日本兵の驚くべき抵抗)を挑んだ。第51師団の編成時の人員数は15,996名、終戦時の生存者は2,754名であった[2]。
[編集] 北本工作隊
独立工兵第30連隊隊員から選抜の50名。健脚で家族に妻や子供など扶養者のいないもの。ニューブリテン島ツルブから連隊員たちが歌う『蛍の光』の歌声と再会を誓う声に送られて大発艇で出港
- 北本正路:予備少尉 隊長, 慶応大卒の元オリンピックのマラソン選手, NHKラジオ体操の元指導員
- 関進 軍医:日大医学部卒, 音楽家
- 北口実雄 伍長:ブラシ職人, 作る手先が器用
- 杉本 上等兵:サラリーマン, 人情の機微がわかり現地住民と仲良くなるのに活躍
- 北出 一等兵:腕利きの大工棟梁, 橋わたすなどに活躍
- 81作戦失敗をうけてキアリからラエへの補給路を開拓した
- 現地住民の酋長ラボはじめカナカ族各部族と約束をして協力を得ることができた。以後転戦、アイタペ決戦、終戦まで無償で献身的な協力を得つづけた
- 1.椰子の木を切らないこと
- 2.女に手を出さないこと
- 3.ドロボウしないこと
- 部族間の連絡は太鼓の音で行っていた
- カナカ部族から若者をつのり民兵隊を組織して一緒に活動した
- 山を越えたラエ側住民はパプア族でドクロを下げる戦闘的性格で苦労した
[編集] 『サラワケット越え』
次の歌は第51師団のある下士官の作と伝えられている。
『サラワケット越え』
一、
任務(つとめ)はすでに果たせども
再び降る大命に
サラワケットを越えゆけば
ラエ、サラモアは雲低し
二、
底なき谷を這いすべり
道なき峰をよじ登り
今日も続くぞ明日もまた
峰の頂程遠し
三、
傷める戦友(とも)の手をとりて
頼む命のつたかずら
しばしたじろぐ岩角に
名もなき花の乱れ咲く
四、
すでに乏しきわが糧(かて)に
木の芽草の根補いつ
友にすすむる一夜さは
サラワケットの月寒し
五、
遥けき御空(みそら)宮城を
伏し拝みつつ勇士等が
誓えることの真心に
応うるがごと山崩る
[編集] 参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室(編), 『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<3> ムンダ・サラモア』, 1970年
- 森山康平, 『米軍が記録したニューギニアの戦い』, 草思社, 1995年
- 鈴木正己, 『ニューギニア軍医戦記―地獄の戦場を生きた一軍医の記録』(文庫), 光人社, 2001年
- 間嶋満, 『地獄の戦場 ニューギニア戦記―山岳密林に消えた悲運の軍団』(文庫), 光人社, 2003年
- 北本正路『栄光マラソン部隊』, 今日の話題社, 1970年
-
- わたしは北本君に救われた 中野英光 元第51師団長
- 東部ニューギニア戦の実相 杉山茂 元第18軍参謀
- 自衛隊幹部諸君はぜひ一読を 田中兼五郎 元第18軍作戦参謀
- 佐藤弘正『ニューギニア兵隊戦記』(文庫), 光人社, 2000年
[編集] 脚注
ニューギニアの戦い |
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