ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー
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ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー(زين العابدين بن علي, 1936年9月3日 - )は、チュニジア共和国の政治家、軍人。大将。第2代大統領(1987年11月7日 -)。
[編集] 経歴
ハマム・スセ出身。男子6人、女子5人の大家族で育った。スセの中学校で学び、上級生になると独立運動に加わった。ベン=アリーは、青年組織に入り、社会主義ドゥストゥール党の支部間の連絡係となった。数回逮捕され、刑務所に入れられ、尋問された。
チュニジア独立後、国軍の中核メンバーとして召集され、フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学した。後にフランスのシャロン・ナ・マルヌ砲兵学校、アメリカの情報・保安学校、防空学校でも学んだ。
1958年からチュニジア軍参謀本部で勤務。最後の軍歴は、軍事保安局長だった。1974年、駐モロッコ駐在武官に任命。1977年、帰国後、国防相官房長となった。同年12月、国家保安局長官に任命。
1980年4月、駐ワルシャワ大使に任命。帰国後、1984年1月、再び国家保安局長官に戻った。同年11月、国家安全保障問題担当国家書記に任命。1986年4月28日、内務相に任命。
1986年6月、与党社会主義ドゥストゥール党第12回大会において、政治局員に選出されると同時に、副書記長となった。1987年中盤、内閣改造の際、ハビーブ・ブルギーバは、ベン=アリーを首相(兼内務相)に指名し、事実上の後継者とした。また、社会主義ドゥストゥール党書記長ともなった。
[編集] 大統領
1987年11月7日、ハビーブ・ブルギーバは退任し、ベン=アリーが大統領に就任した。最初の演説において、ベン=アリーは、国民に「信頼、安全、平穏な状況」での新体制への協力を呼びかけ、「祖国の独立、その進歩の維持」が全国民の責務であり、各人は「責任ある民主主義」の枠内において、「国民主権」を尊重して国家を統治しなければならないと表明した。このなんでもない表明は、後に「11月7日宣言」と称され、ベン=アリーの改革の始まりとされた。
ベン=アリーは、市民の自由の拡大の方針を採り、ジハード・アル=イスラム、イスラム方面運動等の過激派も含めて、政治犯全員を釈放した。また、国家保安事件裁判所が廃止され、共和国検事総長のポストも廃され、容疑者の拘留期間は4日間に制限された。1988年7月、1984年に国連総会で採択された拷問を禁止する条約を批准した最初のアラブ国家となった。
1988年、与党社会主義ドゥストゥール党は、民主憲法連合に改称され、社会の民主化、多元主義の尊重、法治国家の建設を宣言した。民主憲法連合第1回大会前、ベン=アリーは内閣改造を行い、前体制の閣僚数人を更迭した。党大会では、政府と党を分離することが決定された。
改革の次のステップとなったのは、政府、政党、社会団体、職業組織間の関係を規定する国民条約だった。ベン=アリーの言葉によれば、国民条約は政府プログラムや何らかの連合体を創設するものではなく、憲法や現行法を変えるものではない。ベン=アリーは、自分の正当性を主張するために、大統領選を期限前(1989年4月。任期は1991年まで)に行い、国民の審判を仰ぐことに決めた。
大統領選挙において、ベン=アリーは国民の圧倒的多数の支持を得て大統領に再選された。同時に行われた議会選挙では、与党民主憲法連合は141議席を占めた。この選挙結果により、フランスの社会政治研究センターは、ベン=アリーを「今年の人」と呼び、「民主主義・人権」国際賞を彼に授与した。
[編集] パーソナル
独立勲章と共和国勲章を受賞。
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