シエラレオネ内戦
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シエラレオネ内戦(Sierra Leone CIVIL War)とは西アフリカのシエラレオネ共和国で1991年から2002年まで起きた内戦である。反政府勢力、革命統一戦線(RUF)と政府軍との交戦で、ダイアモンドの鉱山の支配権をめぐって大規模な内戦に発展し、7万5000人以上の死者を出した。
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[編集] クーデター
シエラレオネでは1985年からシアカ・スティーブンス大統領の独裁政権に代わって、軍の指導者ジョセフ・サイドゥ・モモ陸軍少校が後継者としてシエラレオネの政権を握った。モモ大統領はスティーブンスの1党政党政を終わらせる政策を取るなど、大規模な内閣改造が行われたが、モモも暗殺計画が企てられ、副大統領のフランシス・ミナーを始めとする、60人以上が逮捕され、モモの独裁政権に反対する動きがあった。1987年モモの独裁政権を倒すためアハメド・フォディ・サンコーがリビアに行き、そこで軍事訓練を受け革命統一戦線(RUF)を結成した。そしてリビアのムアマル・カダフィ大佐に紹介され、サンコーはシエラレオネの隣国リベリアのチャールズ・テーラーと出会った。テーラーもサンコーと同様の考えを持っていた。リベリアで独裁政治を展開していたサミュエル・ドウ大統領を倒すため、カダフィ大佐の元で革命の戦いの軍事訓練を教わっていたのである。そして1989年12月テーラー率いるリベリア国民愛国戦線(NPFL)はリベリアに侵入し武装蜂を起した。
[編集] 内戦
1991年3月サンコー率いる革命統一戦線(RUF)も同胞のテーラーのNPFLの内戦の影響を受けて、リベリア国境付近のシエラレオネ南東部で武装蜂を起した。その頃、シエラレオネの政権では1992年4月29日バレンタイン・ストラッサー率いる軍の下級将校が軍事クーデターを起こし、モモーは政権の座を奪われギニアに逃亡した。そしてストラッサーが国家元首になった。ストラッサーは国内に侵入したリベリアのテーラー率いるNPFl及びそれに合流したサンコー率いるRUFの反政府活動を鎮圧する事であったが、RUFはその後、虐殺や略奪を重ねながら広範な領域を支配して行き、領域内で産出されるダイヤモンドを資金源に大きな勢力を振い、そしてついに首都フリータウンを占領した。一時、テーラーのNPFLの支配地域が減少するにつれ、RUFの勢力が衰えていたように見え、政情が行き詰りを見せたが、1993年にストラッサーはRUFに対して一方的に休戦を宣言したため反乱軍側の兵士に大赦を与えてしまった。その後、モモ政権に参加していた26人がストラッサーを倒そうとする、クーデター未遂事件が発覚。ストラッサーはクーデター陰謀の容疑でその26人を処刑するが、1995年政権内部でクーデターが起こり、ストラッサーは政権を追われてしまった。1996年3月、自由選挙により、アフマド・テジャン・カバーが大統領として文民政権に就任した。しかしRUFはこの文民政権とも激しく対立した。1997年に軍事クーデターでカバー大統領から権力を奪った軍事革命評議会(AFRC)のジョニー・ポール・コロマ少佐が国家元首になり、RUFと一時期ではあるが、手を組んだ。この軍事政権はナイジェリアなどの軍事介入で短命に終わったが、復活したカバー文民政権とRUFの対立はとどまるところを知らなかった。1997年にリベリアで装蜂していた、サンコーの同胞、テーラーがついにリベリアの権力を握った。テーラーは同胞のサンコーを支えるため武器支援と引き換えにダイアモンドを密輸して行った。1998年10月RUFが全土で大攻勢を仕掛け,最終的には全国土の首都を含む、3分の2以上をその支配下に収めた。その後、1999年7月にはロメ和平合意がなされ、国連監視下での武装解除と引き換えに、RUFの政権参加が認められる事となったが、RUF側は武装解除に応じなかった。しかし、16日に逃亡中のRUFのサンコーがフリータウンの自宅で市民により、拘束されシエラレオネ警察に引き渡されると、状況は変る。2000年政府はRUFと停戦に合意。RUF側は政府側の武装解除の要求に応じて行き、カバー政権は2002年1月18日に武装解除を終了宣言し、3月1についに内戦終結を宣言した。拘束されたサンコーは2003年戦争犯罪の罪で裁判に掛ける予定だったが元々、衰弱していた病気のためフリータウンの病院で死亡した。またサンコーの同胞テーラーも同年に圧力によりリベリアの政権を追われ逃亡の末、逮捕され、シエラレオネ内戦に関与したとしてフリータウンの裁判に掛けられ、連れて行かれた。