シュレジェン級
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シュレジェン (Schlesien)級は、「ブラウンシュヴァイク」(Braunschweig)級に引き続き、ドイツ海軍が第一次世界大戦前に竣工させた最後の準弩級戦艦「ドイチュラント級」のうちの二隻をこの時点では便宜上。こう呼称するものである。
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[編集] 艦形について
全長に比べて船体の幅が狭いと言う前弩級戦艦特有の船体に、前級の「武装過多の性で外洋航行時の安定性が悪い」という悪評を改善する為に、艦橋構造を簡略化と副砲塔の全廃を列強に先駆けて行った艦である。工業デザインの重厚さでは定評のあるドイツらしく、質実剛健さとエレガントさを見事に両立させつつまとめられている。船体はエレガントな平甲板型で、艦首には未だ衝角(ラム)が付き、その下部には弩級艦にも受け継がれる水中魚雷発射管がある。主砲は新設計の「1904年型28.3cm(40口径)速射砲」を卵形の連装砲塔に纏め、1番主砲塔、司令塔を組み込んだ操舵艦橋、円柱状の主脚の上には見張り台と三段のマスト。1番から3番までの煙突を挟み込むように両舷に生えたドイツ艦独特の「グース・ネック・クレーン」、後ろに立った単脚檣には主脚と同様に見張り台と三段のマストと背後に後部艦橋、後向きに2番主砲塔があり、艦尾には艦長室が設けられた。水線下は16の区画に分けられ、前級よりも強化された。
[編集] 副砲等
副砲は破壊力を重視して「1904年型17cm(40口径)砲」を採用した。これは当時、列強で主砲の能力を補う目的で装甲巡洋艦の主砲と同等の7~12インチ砲を積む事が流行ったのである。 この砲は重量62kgの徹甲弾を14,500m先まで飛ばす事が出来た。これを最上甲板の下方にケースメイト配置で放射線状に片舷7門で計14門を装備した。その他に対水雷艇用に「88mm(40口径)砲」を単装24門(後に艦首尾部の8門を撤去して16門に)、45cm水中魚雷発射管3基を装備した。
[編集] 艦体
艦体は艦首が斜めになった分の重量を軽減できるカットオフ方式を採用し、舵は主舵だけである。
[編集] 艦歴
[編集] 第一次世界大戦
5隻とも第一次大戦直前の1906年に竣工したが、時既に英国で「ドレッドノート」型戦艦が竣工しており、すでに弩級戦艦時代が始まっていた「ドイチュラント級」は完成した時点ですでに旧式化していたので、活躍の場が無かった。殷々と砲声が轟き、濛々と爆煙がたなびく。史上最大と言われる海戦の一つ、1916年5月31日~6月1日の第一次ジュットランド海戦に「ドイチュラント級」の出番はなかったのである。「ドイチュラント級」は第2戦隊第4戦艦隊の一員として龍の体のように濛々たる黒煙を吹き上げつつ、ラインハルト・シェーア高海艦隊司令長官の総旗艦「フリードリヒ・デア・グロッセ」を懸命に追いかけたが、レシプロ機関の準弩級戦艦は最高速度18ノットの鈍足で、高速の高海艦隊主力部隊は鈍足の「ドイチュラント級」に合わせて速度を制限せざさるを得ず、足手まとい以外の何者でもなかった。撤退の際にも「ドイチュラント級」はまるで役に立たず、英国艦隊に追い回されて必死に逃げ回るのみだった。黒煙を頼りに先行する主力艦隊を追っていた姉妹艦の「ポンメルン」が英国駆逐艦の雷撃で爆音と火柱と共に轟沈した。結局の所、第一次世界大戦において「ドイチュラント級」は能力不足で用をなさず燃料の無駄遣いにのみならず、艦隊行動を阻害しただけに留まった。
[編集] 第一次世界大戦後の状況
「ドイチュラント級」はその後、1917年8月には戦艦としての任務を解除されてしまった。しかし、時代の潮流は老嬢にも余暇を与えてはくれず、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命してドイツ帝国は瓦解した後、第一次世界大戦の終結後にベルサイユ体制下でワイマール・ドイツ共和国海軍が保有を認められた戦艦は準弩級戦艦の6隻のみで「ドイチュラント級」は戦艦籍に復帰して、新生ドイツ海軍の中心となったが、戦間期ということもあって目立った活躍は無い。
[編集] 小改装
1930年代に近代化改修工事を実施し、「シュレジェン」と「シュレスヴィヒホルスタイン」は乏しい予算から、数々の改良・改修が加えられた。 主砲は仰角の上昇等は行われず。天蓋部に測距儀を載せるにとどまり、司令塔を組み込んだ操舵艦橋はそのままに、円柱状の主脚は軽巡洋艦「エムデン」に酷似したチューリップ型の測距塔に変え、測距室の下部には前方の桁が長いX字型のマストが設け、その下の主脚には縦に二段の探照燈台を設けた。艦橋構造は練習艦任務の為に大型化された。副砲は17cm(40口径)単装砲から軽巡洋艦にも採用されている15cm単装砲14門に換装された。88mm単装砲は脅威が駆逐艦から航空機に移った為に対空高角砲4門を後檣基部に片舷2門ずつ計4門据付けた(後に1940年代に防空任務を担った時は20門になった)。そしてヒトラー政権の再軍備宣言と共に新鋭艦艇の建造が開始され、「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は「シュレジェン」と共に練習艦となった。
[編集] 第二次世界大戦
1939年「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は、第1次世界大戦で沈んだ巡洋艦「マグデブルク」追悼式典に参加するため、ダンツィヒに停泊した。すでにヒトラーは作戦「白の場合」の発動を命じている。彼女の砲撃を合図に、ドイツ軍はポーランド領内に進撃するのである。1939年9月1日の朝午前4時45分、ダンツィヒ港に砲声が轟いた。先月から停泊している、「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が、港を扼するヴェスタープラッテ要塞に砲撃を加えたのである。ここに第二次世界大戦の幕が開いた。孤立無援の要塞など、「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」の砲撃によって木端微塵、の筈であった。孤立無援の筈だが、ヴェスタープラッテ要塞とダンツィヒ市内のポーランド軍は頑強に抵抗した。ドイツ軍も警察部隊やSS義勇兵、SA等の二線級部隊を投入しているため攻略は遅々として進まない。中央郵便局を巡る攻防では、逆襲を喰らってドイツ部隊が敗走している。一日に30mも進めれば良い方という惨状だった。両者共に、つかの間の平和で素人同然の働きしか出来なくなっていたのである。支援砲撃にあたる「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」だが、かつてのドイツ艦隊の威信を見せるべく、経験の浅い若手士官や予備役から戻った老兵を叱咤激励しつつ盛んに砲撃を行った結果。9月7日午前にヴェスタープラッテ要塞のポーランド軍はドイツ軍に投降した(砲撃よりも「薬品と飲料水の不足」が降伏の主な理由であったらしい)ダンツィヒ攻略部隊は海軍の水雷艇に空軍のJu87や北方軍からの増援を受けて、ようやくダンツィヒ制圧に成功したのである。後の熾烈な戦闘からすれば素人同然と言うよりない戦いで、「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が任務を果たしたかどうかは、疑問であるが、地位回復へ役立ったというべきであろう。やがて、老令嬢は黒煙をたなびかせつつ故郷の港へ戻っていった。 大戦中にはバルト海沿岸で支援砲撃や輸送任務などに従事していたが、大戦末期になって両艦とも損傷し、修理も出来ないまま自沈処分となっている。
[編集] データ
[編集] 竣工時
- 水線長:125.9m
- 全長:127.6m
- 全幅:22.2m
- 吃水:8.22m
- 基準排水量:13,191トン
- 常備排水量:14,218トン
- 満載排水量:-トン
- 兵装:1904年型28.3cm(40口径)速射連装砲2基、1904年型17cm(40口径)単装砲18基、88mm(40口径)単装砲24基、45cm水中魚雷発射管6基
- 機関:石炭専焼缶12基+三段往復機関3基3軸推進
- 最大出力:16,000hp(公試時:16,990hp)
- 航続性能:12ノット/4,800海里
- 最大速力:18ノット(公試時:18.6ノット)
- 装甲
- 舷側装甲:240mm(水線面上部主装甲)、203mm(主装甲よりも上部)、75mm(艦首尾部)
- 甲板装甲:-mm
- 主砲塔装甲:300mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
- 副砲塔装甲:140mm(砲枠)、170mm(ケースメイト部)
- パーペット部:280mm
- 司令塔:300mm
- 航空兵装:-機
- 乗員:708名(水兵)、38名(士官)
- 同型艦:ドイッチュランド、.ハノーファー、ポンメルン、シュレジェン、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン
[編集] 1931年近代化改装後
- 水線長:125.9m
- 全長:127.6m
- 全幅:22.2m
- 吃水:8.22m
- 基準排水量:13,191トン
- 常備排水量:14,218トン
- 満載排水量:-トン
- 兵装:1904年型28.3cm(40口径)速射連装砲2基、1906年型15cm(45口径)単装砲14基、88mm(45口径)単装高角砲20基、45cm水中魚雷発射管6基
- 機関:石炭缶8基+重油専焼缶6基+三段往復機関3基3軸推進
- 最大出力:20,000hp(公試時:16,990hp)
- 航続性能:12ノット/5,600海里
- 最大速力:18.5ノット(公試時:19ノット)
- 装甲
- 舷側装甲:240mm(水線面上部主装甲)、203mm(主装甲よりも上部)、75mm(艦首尾部)
- 甲板装甲:-mm
- 主砲塔装甲:300mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
- 副砲塔装甲:140mm(砲枠)、170mm(ケースメイト部)
- パーペット部:280mm
- 司令塔:300mm
- 航空兵装:-機
- 乗員:727名
- 同型艦:シュレジェン、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン