シーナカリン
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シーナカリンタラー=ボーロマラーチャチョンナニー王太后 (สมเด็จพระศรีนครินทราบรมราชชนนี, 1900年10月21日 – 1995年7月18日) はタイ国王、ラーマ8世(アーナンタマヒドン)およびラーマ9世(プミポンアドゥンラヤデート)の母。タイ国外では通称、シーナカリン王太后 (Sinagarindra the Princess Mother of Thailand) などと呼ばれる。タイ北部を愛し、頻繁に訪れたことから、北部の特に山岳民族からソムデット・ヤー (สมเด็จย่า, 「祖母陛下」程度の意味) と呼ばれ親しまれた。また、タイでは一般にメーファールワン (แม่ฟ้าหลวง、Princess Motherの意) と呼ばれる。なお、旧名はサンワーン・タラパット (สังวาลย์ ตะละภัฏ) である。
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[編集] 伝記
トンブリーで開業していた華僑の金細工職人の娘として1990年誕生する。9歳の時父母が死亡したが、ペッチャブリーラーチャシリントーン内親王(ワライアロンコーン内親王)の宮女となり、サットリーウィッタヤー学校に通う。その後、16才の時からシリラート病院に看護婦として勤務するが、後に王室の奨学金を頂戴し、アメリカに留学、20才で留学先で出会ったソンクラーナカリン親王(マヒドンアドゥンラヤデート親王)と結婚した。その後、ソンクラーナカリンが急病に倒れる1929年までに、カンラヤーニワッタナー内親王、アーナンタマヒドン親王、プーミポンアドゥンラヤデート親王、を産んだ。
1929年にソンクラーナカリン親王が死去すると、サンワーンの理解者であり姑であったシーサワリン妃(サワーンワッタナー内親王)の住むサラパトゥム宮殿に身を寄せる。後に、立憲革命の混乱の最中、ラーマ7世(プラチャーティポック)が退位、1935年に息子のアーナンタマヒドン親王が国王になり、親王の平民出身の嫁から一躍、国王の母となった。このころ、サンワーンからシーサワリン妃に送られた書簡には「私が国王の母にふさわしくないのであれば、どうぞ王族の母を持つ方を王に選出するように彼ら(=政府)に言ってください」とあり、かなり動顛していたことが伺われる。
1935年に息子が即位しラーマ8世となると、ラーマ8世があまりタイの気候に遭わないことや、ラーマ8世の学業の継続などの理由から、家族もろともスイスのローザンヌに戻った。その後ラーマ8世が謎の死を遂げると、今度はプーミポンが国王となった。1960、プームポン国王とシリキット王妃がヨーロッパへ行くと、一時的に摂政となり国王の業務を代行した。
晩年、シーナカリンは北部地域に大きく関心を寄せ、ドーイ・トゥンの近辺で国境警備隊の名誉隊員となり、山岳民族を訪ねて回り、また、無料で山岳を巡回する医師達の活動を支援した。この他多くの慈善事業に参加している。また、ドーイトゥン宮殿を建て、そこに行くのを楽しみともしていた。
しかし、1991年以降に体調を崩してから何度も体調を壊すようになり1995年じた。1996年5月10日正式に葬式が執り行われワット・ラーチャボーピットに遺骨が奉納された。なお1993年には、シーナカリンを記念して建てられた、ソムデットヤー公園が開園している。
[編集] その他
シーナカリンに由来する公共団体や地名などが各地に残っている。以下ではそれらのリストである。
[編集] 外部リンク
- The Communications Authority of Thailand | the Princess Mother
- Mae Fa Luang Foundation | Royal Patron
- Doi Tung Development Project | the Princess Mother
- The Royal Thai Embassy in Washington DC | The Princess Mother of Thailand
[編集] 参考文献
- Handley, Paul M. The King Never Smiles, United States of America: Yale University, 2006, ISBN 9780300106824