ジャガー・XJR-11
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ジャガー・XJR-11は1989年世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)用にトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)が製作したグループCカーである。
エンジンはXJR-9までの大排気量自然吸気のV型12気筒から、オースチンローバー製3.5リッターV型6気筒ターボAJ6に変更された。なおXJR-10はIMSA用のGTPで、XJR-11とほぼ同型車だが、IMSA規定により排気量は3.0リッターである。
デビュー戦は第4戦ブランズハッチ。5位で完走するが、同じ英国のアストンマーチン・AMR-1(4位)の後塵を拝することになってしまう。以降も熟成が進まず、TWRジャガーは最終戦メキシコではXJR-9で参戦することとなる。
翌1990年からTWRジャガーはタイヤを永く使ってきたダンロップから、当時最強と謳われたグッドイヤーにチェンジ。開幕戦鈴鹿では序盤トヨタと激しい先陣争いを演じるが、終盤ギアボックスとターボが壊れリタイヤとなる。第2戦モンツァではメルセデス2台に次ぐ3位と初めて表彰台に上る。第3戦の地元シルバーストンでは、メルセデスの脱落があったにせよ、初優勝を1-2フィニッシュで飾る。シーズン後半はタイヤ性能では劣る(ダンロップを装着)日産にしばしば上に行かれるも、年間ランキング2位を守り切りシーズンを終える。しかし年間王者メルセデスとの差は埋めがたい大きなものなっていた。
1991年、スポーツカー世界選手権(SWC)のTWRジャガーはカテゴリー1(3.5リッター自然吸気エンジン搭載)のジャガー・XJR-14にマシンを移行するが、XJR-11は日本のサンテック・レーシングに渡り、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に参戦する。しばしば好走を見せるが結果に結びつかず、第5戦菅生の6位が最高位。(なお最終戦菅生はXJR-14がワークス体制で急遽参戦し優勝している)
IMSAのXJR-10は、1989年第5戦ライムロックでデビュー、いきなり2位に入賞する。その後第10戦ポートランドで初優勝するも、こちらも中々熟成が進まずシーズン終盤はWSPC同様XJR-9にマシンを戻すことになる。翌1990年もXJR-10は日産、トヨタの前に苦戦、王者獲得はならなかった。