ジョアン・ヴィエイラ
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ジョアン・ベルナルド・ヴィエイラ(João Bernardo "Nino" Vieira、1939年4月27日- ビサウ生)は、2005年10月1より現在に至るまでのギニアビサウ共和国の大統領である。ヴィエイラは、大統領選挙に当選し、2005年半ばより政界に復帰した。19年間の政権が内戦によって剥奪されてから、わずか6年後のことである。
もともと電気技師としての訓練を受けていたヴィエイラは、1960年にアミルカル・カブラルが結成したギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)に入党し、まもなくポルトガルの植民地支配に抵抗するゲリラ戦において重要な人物となった。
内戦が進むにつれ、ヴィエイラは軍指揮官としての能力を発揮し、速やかにその地位を上げていった。ヴィエイラは彼らの同僚から「ニノ」と呼ばれ、その愛称は混迷する内戦の中で広まっていった。
1972年にPAIGCの支配地域で、後の国民議会の元となる地方評議会選挙が実施され、ヴィエイラは国民議会の議長に指名さた。ギニアビサウ独立の後、1978年にはギニアビサウ共和国の首相に指名された。
1980年頃経済状況は顕著に衰退し、政府に対する不満が広がっていった。1980年11月14日にヴィエイラは、ルイス・カブラルの政権を無血軍事クーデターによって転覆し、カーボベルデのPAIGCとは分離した政党となった。憲法は停止され、ヴィエイラを長とする9人の軍人による革命評議会が設置された。1984年に改正憲法が制定され、再び文民政治となった。
1990年代よりギニアビサウは、複数政党民主主義へと移行していった。政党の結成が1991年に解禁され、1994年に大統領選挙が行われた。7月3日に実施された第一回の投票で、ヴィエイラは他の7人の候補を下して46.20%を得票したが、過半数に満たなかったため8月7日に第二回投票が実施された。ヴィエイラは、52.02%を得票して、47.98%を得票した対立候補である、元哲学の講師で社会革新党(Partido para a Renovaçao Social)の代表であるクンバ・ヤラ候補を下した。国際選挙監視団は、両方の投票とも公正なものと評価し、ヴィエイラは1994年9月29日にギニアビサウで初めての民主的選挙によって選ばれた大統領となった。
1998年のクーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーであるアンスマネ・マネ派の軍との間で激しい内戦が勃発した。1999年5月7日に反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させた。ヴィエイラはポルトガル大使館へ避難し、7月にポルトガルへと亡命した。
別のクーデターによってクンバ・ヤラ政権が崩壊した2年後の2005年4月にヴィエイラはポルトガルからビサウへ帰還し、7月に大統領選の実施を宣言した。ビエイラは政治的に告発されて国外亡命しており、大統領選への立候補資格はないと考えられていたが、2005年5月に最高裁判所より立候補資格を認められた。彼がかつて所属していたPAIGCは暫定党首であったマラム・バカイ・サニャを候補に出した。
公式の選挙結果によると、ヴィエイラは6月19日の一次投票で28.17%%の得票率で、マラム・バカイ・サニャに次ぐ時点であった。7月24日の二次投票では52.35%の得票率でサニャ候補を下し、10月1日に大統領の座に就任した。
2005年10月28日にヴィエイラは、政権の安定維持を掲げて、敵対するカルロス・ゴメス・ジュニオル首相の政府の解体を宣言し、11月2日にアリスティデス・ゴメスを首相に指名した。
経歴
- カチオ州地方行政官および軍曹 (1961)
- 南部戦線指揮官 (1964)
- PAIGC 事務局員 (1964 – 1965)
- PAIGC戦争評議会副議長(1965 – 1967)
- 南部前線政治事務所代議員 (1967 – 1970)
- PAIGC戦争評議会会執行委員 (1970 – 1971)
- PAIGC常設事務局員(1973 – ????)
- PAIGC書記長代理に指名される (1973)
- 国民議会議長 (1973 – 1978)
- 首相 (28 September 1978 – 14 November 1980)
- 革命評議会議長 (14 November 1980 – 14 May 1984)
- 国家評議会議長 (16 May 1984 – 29 September 1994)
- ギニアビサウ共和国大統領 (29 September 1994 – 7 May 1999)
- ギニアビサウ共和国大統領 (1 October 2005 – present)
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