ジョニー・パワーズ
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ジョニー・パワーズ(Johnny Powers、1941年- 生年は諸説あり )はカナダ出身、米国・カナダ・日本その他各国で活躍したプロレスラー、プロモーター、実業家。
プロレス史上随一ともいわれた端整なマスクと、天才的なレスリングセンスで人気を誇った、1960~1970年代を代表するレスラーの1人。鍛え上げられた肉体は鋼鉄男と、妥協を許さぬ試合振りは死神とも称された。日本のアントニオ猪木とは終生のライバル関係にある。後年は実業家として大成功を収めた。初代NWF認定世界ヘビー級王者。北米ヘビー級王者。
[編集] 略歴 人物
- アマレスのキャリアを経て1960年にプロレスデビュー。抜群の容姿、鋼鉄男と称された恵まれた体躯、優れたレスリングセンスでトップレスラーとなる。北東部を中心に全米各地・カナダの主要マーケットをサーキットし、次期世界王者候補の最右翼の1人と呼ばれた。1966年には東京プロレスの旗揚げシリーズに来日、終生のライバルとなる猪木と初対決している。またこの時に一緒だったジョニー・バレンタインとは、1970年代前半に五大湖地区で伝説的な大抗争を繰り広げ、ファンを熱狂させることになる。パワーズ自身、後に「猪木とバレンタインとの出会いにより強い影響を受け、自信を与えられた」と語っている。
- 旧態依然としたプロレス界に反発したパワーズは1971年、NWF(ナショナル・レスリング・フェデレーション)を自ら中心になり設立、オハイオ州クリーブランド、ニューヨーク州バッファローを中心に米北東部・カナダ、更に日本の新日本プロレスも傘下に治め、広大なパワーズ王国を築いた。前述のバレンタインの他、ボボ・ブラジル、アーニー・ラッド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークら超一流レスラーが集結し、北米大陸屈指の繁栄マーケットとした。1973年にはNWF世界王者として来日。12月10日東京体育館で行われた猪木とのタイトル戦は、日本マット史に残る名勝負となった。以降も新日マットで猪木や坂口征二と激闘を繰り広げた。
- 1970年代末には米マットに見切りをつけ、アジア、アフリカに進出、国際的にプロレスラー・プロモーターとして活躍する。1980年代前半でプロレスビジネスからは離れたが、実業家として大きな成功を成し遂げた。1990年9月には猪木のデビュー30周年イベントに10年振りに来日。記念式典では乾杯の挨拶を務めた。恵まれたスターでありながら敢えて反逆者・改革者の道を歩んだという点で猪木とパワーズは共通する。
- 得意技の変形足4の字固めをパワーズ・ロックと称した。日本では4の字固めの2倍の強さがあるという意で8の字固めとも呼ばれた。決まったら絶対外せない必殺技として恐れられた。この技で猪木から新日マットでのシングル戦で2度ギブアップを奪っている。これは新日では最多記録である。徹底的に足を痛めつける冷酷な試合振りから死神というニックネームがつけられた。
- 成功者の常として、いわれなき中傷を受けることが多いが、パワーズは若くして米マットの反逆者であったので特にその傾向が強い。流布している噂の例に「パワーズの乾杯の挨拶に、誰も杯を挙げようとしなかった」などあるが、そのほとんどは根拠に乏しい流言飛語の類いである。人付き合いに難点があり、その辺に誤解の種があったとも推測される。