ジョルジュ・ダンテス
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ジョルジュ・ダンテス(Georges-Charles de Heecheren d'Anthès, 1812年-1895年)はフランス人士官。プーシキンと決闘を行ったことで知られる。
フランスの政変を避け、1833年にペテルブルクに亡命。オランダ大使ヘッケレン男爵によってペテルブルクの社交界に引き出された。美男子で放蕩者のダンテスは、ヘッケレン男爵と男色の関係にあったと言われる。1836年にヘッケレン男爵の養子となった。
類稀な美人であったと言われるプーシキンの妻ナタリアへを慕うようになる。その後ダンテスは、1837年にナタリアの妹エカテリナ・ゴンチャロヴァと結婚するが、その後もナタリアに言い寄り続け、業を煮やしたプーシキンは決闘を申し込んだ。
決闘は1837年2月8日(旧暦で1月27日)、ペテルブルク郊外の雪原で行われた。プーシキンはダンテスの撃った弾を右腹部に受けて倒れ、その2日後に息を引きとった。
その後、フランスに戻ったダンテスは、第二帝政期に元老院議員となった。
現在、決闘のあった場所には1937年につくられた記念碑が立っている。