トゥールのマルティヌス
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トゥールのマルティヌス St. Martin of Tours(316年頃-397年)は、トゥールの司教、キリスト教の聖人。はじめはローマ軍人であったが、キリスト教に改宗して修道者となった。殉教者ではないものが聖人として初めて認められたのが、マルティヌスである。ある冬、兵役についていたとき貧しい兵士(一説にこじき)に自分の外套の半分を分け与えたなど、おびただしい逸話や伝説がある。カトリックでの祭日は11月11日。
パンノニア出身で、ローマ帝国の騎士身分に生まれた。父は軍人でパドヴァ(現イタリア)に駐屯した。15歳のとき軍隊に入り、属州ガリアのアミアン(現ドイツ)で軍務についた。
伝承によれば、アミアンで、市門の番をしているとき、偶然に見かけた貧者に自分の軍衣を半分に切って分け与えた。その夜、マルティヌスが与えた衣をまとってイエス・キリストが夢に現われた。そして天使に「ここにマルティヌスがいる。彼は洗礼を受けていない。しかし私に着るものを与えた」。マルティヌスが目覚めると、切ったはずの衣は元通りになっていた。これはマルティヌスに関するもっとも有名な逸話である。フランク王国メロヴィング朝はこのときの衣であるという聖遺物を宝物にしていた。
マルティヌスはその日、洗礼を受け、キリスト教に改宗した。2年後、マルティヌスは修道者となる決意をし、ウォルムスで軍隊を抜け出し、トゥールでヒラリウスの弟子となった。三位一体論者として著名なポワティエのヒラリウスは、このときアリウス派を奉じる西ゴート族の有力者の反対を受け、ポワティエを追い出されてトゥールに滞在していた。 マルティヌスはいったんイタリアに戻り、ミラノでアリウス派を信じる大司教アウクセンティウス(ミラノ大司教在位355(-6) -374年)と対決し、町から追い出された。伝承は、このあとしばらくマルティヌスがティレニア海の島に身を隠し、隠修生活をおくったとする。
361年、ヒラリウスがポワティエに帰還すると、マルティヌスも同行し、郊外に修道院を造った。371年、トゥールの司教に任命された。トゥールの郊外、ロワール川の対岸に修道院を建て、その規則を定めた(Majus Monasterium)。一説にはこれがヨーロッパ最初の修道院であるとし、聖ベネディクトゥス会則への先駆をみる。
禁欲主義をとるアヴィラのプリスキリアヌスが司教イタキウスらに異端として追求されると、マルティヌスはトリールにいたローマ皇帝僭称者マグヌス・マクシムスの宮廷に出向き、助命を嘆願した。これは一端は効果を奏したものの、マルティヌスの出立後、イタキウスらはマグヌス・マクシムスに嘆願し、プリスキリアヌスらを異端の咎で首切りの刑に処させた。これはキリスト教で最初の異端を理由とする死刑であった。マルティヌスは後にプリスキリアヌスの処刑を聞き、ひどく悲しんだ。
マルティヌスはトゥールで死に、葬られた。その墓所は、中世には有名な巡礼の場所となった。トゥール自体がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路の拠点であり、マルティヌスの墓所はサンティアゴ巡礼の主要な宿泊場所となった。
[編集] 後世の受容
ヨーロッパでは、彼は親しまれているため、人の名前をはじめ教会、学校などにマルティン、マルチン、マルティーノというように、その名をつけたものが多い。フランスでのキリスト教伝道の象徴的存在と目され、フランスの守護聖人とされている。
マルティン・ルターは、11月10日に生まれ、11日に洗礼を受けた。そのためこの聖人の名前をもらったともいわれる。ドイツではマルティヌスの日は冬の始まる日とみなされる。非カトリック地域である北ドイツでも、ルターにちなむ日として、盛大に祝われる。