ニコライ・アンドリアノフ
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男子 体操競技 | ||
金 | 1972 | 個人種目別 ゆか |
金 | 1976 | 個人種目別 ゆか |
金 | 1976 | 個人総合 |
金 | 1976 | 個人種目別 つり輪 |
金 | 1976 | 個人種目別 跳馬 |
金 | 1980 | 団体総合 |
金 | 1980 | 個人種目別 跳馬 |
銀 | 1972 | 団体総合 |
銀 | 1976 | 個人種目別 平行棒 |
銀 | 1976 | 団体 総合 |
銀 | 1980 | 個人種目別 ゆか |
銀 | 1980 | 個人総合 |
銅 | 1972 | 個人種目別 跳馬 |
銅 | 1976 | 個人種目別 あん馬 |
銅 | 1980 | 個人種目別 鉄棒 |
ニコライ・エフィーモヴィチ・アンドリアノフ(Николай Ефимович Андрианов , 1952年10月14日 - )はソビエト連邦(ロシア)の体操競技選手。夏季オリンピックに3度出場(ミュンヘンオリンピック、モントリオールオリンピック、モスクワオリンピック)し、オリンピック男子史上最多の通算15個のメダルを獲得した(最多は女子体操、ラリサ・ラチニナの18個)。
目次 |
[編集] 経歴
アンドリアノフは11歳の時にロシアのウラジーミルにある体操教室「ブレヴェスニク」に入った。彼のトレーナーはソビエト連邦で非常に有名なニコライ・トルカチェフだった。アンドリアノフの国際大会での初成功は1971年にスペインのマドリッドで行われたヨーロッパ選手権であった。この大会で金メダルを獲得した後、1971年から1980年までの間、オリンピックを含む多くの国際大会で優勝した。
アンドリアノフはオリンピックの金メダルを2つ獲得したソ連の体操選手、リュボフ・ブルダと結婚した。引退後はソ連の体操コーチを務めた後、日本の朝日生命体操クラブのコーチとなり、塚原直也のコーチも2002年まで務めた。2002年からはウラジーミルの少年スポーツ学校の校長を務めている。
[編集] オリンピック以外の賞
[編集] 体操競技世界選手権大会
- 個人総合:1974年 - 銀、1978年 - 金
- 団体総合:1974年 - 銀、1978年 - 銀、1979年 - 金
- 個人種目別跳馬:1974年 - 銀、1978年-銀、1979年 - 銀
- 個人種目別平行棒:1974年 - 銀、1978年 - 銀
- 個人種目別あん馬:1974年 - 銀
- 個人種目別つり輪:1974年 -金、1978年 - 金
[編集] 体操ワールドカップ
- 個人総合:1975年 - 金、1977年 - 金
- 個人種目別跳馬:1977年 - 銀
- 個人種目別ゆか:1975年 - 銀、1977年 - 金
- 個人種目別平行棒:1975年 - 金、1977年 - 金
- 個人種目別あん馬:1975年 - 銀
- 個人種目別つり輪:1977年 - 金
[編集] ヨーロッパ選手権
- 個人総合:1971年 - 銅、1973年 - 銀、1975年 - 金
- 個人種目別跳馬:1971年 - 金、1974年 - 金、1975年 - 金
- 個人種目別ゆか:1971年 - 銅、1973年 - 金、1975年 - 金
- 個人種目別平行棒:1971年 - 銀、1973年 - 銀、1975年 - 金
- 個人種目別あん馬:1971年 - 金、1975年 - 銀
- 個人種目別つり輪:1971年 - 銀、1973年 - 銀
- 個人種目別鉄棒:1975年 - 金
[編集] 国内選手権 (ソビエト連邦)
- 個人総合:1972年 - 金、1973年 - 金、1974年 - 金、1979年 - 銅
- 個人種目別跳馬:1971年 - 金、1972年 - 銀、1979年 - 金
- 個人種目別ゆか:1972年 - 金、1974年 - 金、1975年 - 金
- 個人種目別平行棒:1972年 - 銀、1974年 - 金、1979年 - 金
- 個人種目別あん馬:1972年 - 銀、1974年 - 金
- 個人種目別つり輪:1972年 - 銀
- 個人種目別鉄棒:1972年 - 金、1975年 - 金
[編集] ソビエト連邦カップ
- 個人総合:1972年 - 優勝、1974年 - 優勝、1978年 - 3位
[編集] その他
ツービート時代のビートたけしのネタの一つに、有名な「コマネチ!」と並んで「アンドリアノフ!」があった。こちらによって彼の名を記憶にとどめる日本人も少なくない。
カテゴリ: 体操競技選手 | 1952年生 | ソビエト連邦のスポーツ選手