ハリエット・タブマン
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ハリエット・タブマン(Harriet Tubman, 1821年3月10日 - 1914年は、アメリカ合衆国メリーランド州ドーチェスター郡出身の、アンダーグラウンド・レールロード(地下鉄道、アメリカ北部やカナダへ黒人奴隷が逃亡するのを援助する秘密組織)の女性指導者のひとり。その功績から尊敬をこめて、「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた。古代エジプトで奴隷となっていたイスラエル人をカナンの地へ導いた、古代の預言者モーセになぞらえてのことである。
メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた。生まれたときの名はアラミンタ・ロス。ハリエットは母親の死後、母の名から取って名乗ったもの。5歳からメイド兼子守りとして働きはじめた。1844年ごろ、同じく奴隷であるジョン・タブマンと結婚した。長年の奴隷生活に堪え、奴隷監督からの殴打などを含む虐待に耐えた。奴隷監督から頭部に受けた殴打は後遺症を残し、生涯ナルコレプシーに悩まされることになる。
1847年、奴隷主が死に、奴隷が売られると聞いたことをきっかけに、脱出を渋る夫を残して北部のフィラデルフィアへ逃亡した。逃亡の途上、奴隷解放運動主義者でアンダーグラウンド・レールロードを支援していたクェーカー教徒に助けられる。フィラデルフィアではレビ・コフィンやトーマス・ガレット、フレデリック・ダグラス、ジョン・ブラウンらの奴隷解放運動家と交流を持ち、アンダーグラウンド・レールロードの「車掌」としてその運行をはじめた。
1850年から1860年の間に約19回の南部との往復を繰り返し、300人余りの奴隷達の逃亡を助け、自由に導いた。ハリエット・タブマンは一度も捕えられず、「車掌」として成功をおさめた。そのためタブマンに掛けられた賞金額は合計4万ドルを超えた。南北戦争中はコックおよび看護婦として働くとともに、北軍のためのスパイをも務めた。この任務においても、タブマンは一度も捕えられることはなかった。
南北戦争が終わり、南部での奴隷解放の後も、黒人と女性の権利のために活動家として活躍した。伝記筆者セーラ・ブラッドフォードの協力を得て、1869年に半生記『ハリエット・タブマンの生涯の情景』を出版した。これはタブマンの財政的困難を著しく改善した。南北戦争後30年を経過するまで、戦争中のスパイとしての軍務活動にも関わらず、タブマンには政府からの恩給が支給されなかったからである。同年、黒人の退役軍人・ネルソン・デービスと再婚した。
ジョン・ブラウンはタブマンを「タブマン将軍」と呼び、「この大陸でもっとも勇敢な人物」と評した。フレデリック・ダグラスもまた、「ジョン・ブラウンを除けば、奴隷の逃亡を助けるため、タブマン以上に危険で困難な仕事をした人物を挙げることは出来ない」と述べている。
1913年に肺炎で死去した。