ブランディワインの戦い
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ブランディワインの戦い | |
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戦争: アメリカ独立戦争 | |
年月日: 1777年, 9月11日 | |
場所: ペンシルバニア州 チャズフォード近辺 | |
結果: 英国軍の大勝 | |
交戦勢力 | |
大陸軍 | イギリス軍 |
指揮官 | |
ジョージ・ワシントン | ウィリアム・ハウ |
戦力 | |
10,600 | 17,000 |
損害 | |
死者 200 傷者 750 捕虜 400 |
死者 89 傷者 487 |
ブランディワインの戦い はアメリカ独立戦争中の1777年9月11日にペンシルバニア州デラウェア郡チャズフォード近辺で行われた大陸軍とイギリス軍との間の戦闘である。戦いはイギリス軍の大勝に終わり、イギリス軍はフィラデルフィア市の占領に動く。
目次 |
[編集] 発端
1777年7月下旬に、ニュージャージーのサンディフックから34日間もかかって、イギリス軍のウィリアム・ハウ将軍麾下17,000名の軍隊が260隻以上の船隊でメリーランド州エルク川口に上陸した。そこはチェサピーク湾の北の奥、現在のエルクトンでフィラデルフィアの約60~80km南西にあたる。上陸は細い河口が浅く泥が多かったために難渋を極めた。
ジョージ・ワシントン将軍は約10,600名の大陸軍をエルク河口とフィラデルフィアの間に置いていた。彼の軍はイギリス軍の上陸を北東に14kmほど離れたアイアンヒルから偵察することができた。上陸に手間取ったハウ軍はキャンプも張らずに進軍を始めた。その結果ワシントンは正確に敵の勢力を掴めなかった。
ワシントンは英国軍に対抗するためにチャズフォード(フォード(ford)は浅瀬)近くの高台を選んだ。チャズフォードはボルチモアとフィラデルフィアを結ぶ道路をブランディワイン川が横切る要衝であった。9月9日、ワシントンはここで戦闘が起こることを期待して、チャズフォードの上下流の浅瀬を守るように部隊を配置した。チャズフォードの数百ヤード南のパイルズフォードには約1000名のペンシルバニア市民兵を率いたジョン・アームストロング将軍、チャズフォードにはアンソニー・ウェイン将軍とナサニエル・グリーン将軍の部隊を配置した。ジョン・サリバン将軍の部隊はブランディワイン川の東岸に展開し、アダム・ステファン将軍とウィリアム・アレクサンダー将軍の部隊とともにチャズフォードの北の高台を守った。川の上流ではモーゼス・ヘイゼン大佐の部隊がバッフィントンフォードとウィスターズフォードを守った。ワシントンはこれで十分だと思っていた。
イギリス軍はケネットスクェアの近くに集結した。ハウは準備の整った大陸軍に全面的な戦いを仕掛けようとは考えていなかった。その代わりにロングアイランドの戦いで用いたような側面攻撃を採用した。ウィルヘルム・フォン・クニプハウゼン指揮下の約5000名の部隊がチャズフォードでワシントンの軍と向き合う。一方で、チャールズ・コーンウォリス指揮下の残りの部隊は数マイル北のジェフェリスフォード(ここはワシントンが見過ごしていた)に向かいそこから南下して大陸軍の側面を攻撃する。
[編集] 戦闘
9月11日の朝は深い霧に包まれていたので、イギリス軍の動きを見えなくしていた。ワシントンはまるで反対の報告を受けていたので、イギリス軍の主力がクリスフォードを攻めてくるものと信じていた。午後2時頃イギリス軍が大陸軍の右手に現れた。ヘイゼンの部隊が側面を衝かれサリバン、ステファン、アレクサンダーの部隊が右手に現れた予期せぬイギリス軍に対抗するために部隊の配置を変えようとした。しかしハウは攻撃を急がず、大陸軍がチャズフォードの北1マイルにあるバーミングハム集会所の高台に兵士を配置するのを待った。4時までにイギリス軍は攻撃の矛先を交わしていたステファンとアレクサンダーの部を攻撃し、両部隊とも崩れた。サリバンはドイツ人傭兵部隊の一隊を攻撃し、集会所近くのアレクサンダーの兵士を助けるとともに、アレクサンダー隊の大半が撤退できるように時間を費やした。しかし、サリバンの部隊はイギリス軍の反撃にあって撤退を余儀なくされた。
この時点で、ワシントンとグリーンの援軍が集会所を占拠したイギリス軍を追い払うために到着した。サリバン、ステファン、アレクサンダーの部隊の残りは追撃するイギリス軍に対し1時間近く持ちこたえたが遂に撤退した。砲兵隊の馬がほとんど殺されたために、大陸軍は集会所の丘に大砲を残していくしかなかった。
クニプハウゼンはチャズフォードを渡り、ブランディワイン川の東岸で弱体化した大陸軍中央を攻撃し、マクスウェルとウェインの部隊を撤退させ、その大砲を手に入れた。アームストロングの市民軍は戦闘に参加することなく撤退を決めた。はるか北方では、グリーンがウィードン大佐の部隊を送って、大陸軍の撤退の時間を稼ぐためにディルワース郊外の道を守らせた。暗闇が訪れるとイギリス軍の追撃も緩み、ウィードン隊も撤退できた。敗軍の大陸軍はチェスターまで撤退した。大半がそこに到着したのは真夜中であり、翌朝逃げてきた者もいた。
[編集] 戦後
戦闘でイギリス軍は89人が死亡し、487人が負傷を負った。一方で大陸軍は200人が死亡し750人以上が負傷、400人が捕虜となった。さらに大砲11門が破壊またはろ獲された。
ハウは大陸軍を打ち破ったが、予想し難かったことが大陸軍を完璧に叩くことを妨げた。大陸軍の意気が落ちなかったのである。戦闘では負けても、大陸軍はまだ戦う気力を持ち続けた。大陸軍は指揮もだめなことが自覚できた。ワシントンは右翼をがら空きにするという大きな誤りを犯した。サリバン、アレクサンダー、ステファンの奮戦がなかったら完璧にやられていたかもしれない。ハウは大陸軍の右翼を衝くことに時間を使いすぎて、彼に殺し屋の本能がないことを証明してみせた。彼は2年前のバンカーヒルの戦いで勝利したときも犠牲が大きかったので今回もそれを恐れ、大半の大陸軍を逃がしてしまった。
その後の両軍は、9月20日から21日にかけての夜に起こったパオリの虐殺のような小競り合いに終止した。 大陸会議はフィラデルフィアを放棄し、まず1日のみランカスターに、続いてヨークに移った。大陸軍は9月26日にリーディングに移った。イギリス軍は9月26日に抵抗されることなくフィラデルフィア市内に入った。