ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
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ブルハーヌデッィーン・ラッバーニー (ダリー語:برهان الدين ربانى (Burhānuddīn Rabbānī) 1940年 ‐ ) は、アフガニスタンの政治家。日本ではブルハヌッディン・ラバニと表記されることもある。
民族的にはタジク人で、初代アフガニスタン・イスラム国大統領 (1992年 - 1996年および 2001年)、アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線大統領 (1997年 - 2001年) を歴任した。イスラム主義系政治組織イスラム協会の最高指導者。
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[編集] 大統領就任まで
1940年 (1942年とも)、ムハンマド・ユスフの息子としてバダフシャーン州ファイザバードに生まれる。地元の学校を卒業後、カーブルのアブ・ハニファ神学校に進んだ。同校を終えた後、イスラム法とイスラム教神学を学ぶために、カブール大学イスラム法学部に進学した。在学中に優れた学究として知られるようになった。1963年に同校を卒業、そのまま同大学の講師として迎えられた。さらに学問を究めるために、カイロのアル=アズハル大学に留学し、イスラーム哲学の修士号を取得した。1969年にはトルコのアンカラ大学にも3ヶ月間留学した。
1968年、アフガニスタンに帰国したラッバーニーは、イスラム協会の理事会から大学生の組織化を命ぜられたが、早くも1972年には、イスラームに関する深い学識、人望、活発な宗教活動を認められ、15人で構成される理事会によってイスラム協会の最高指導者に選出された。
1974年の春、このような活動に目をつけられたラッバーニーは、時のダーウード政権によって逮捕されそうになるが、学生の手引きによって難を逃れ地方に身を潜めた。後にパキスタンに脱出。1970年代末から本拠地をイランのマシュハドに置き、アフガニスタン人民民主党に対する闘争を開始。1980年7月から再びパキスタンを本拠地とした。同拠点から、イスラム協会のムジャーヒディーンによるソ連・アフガン戦争を指揮した。1989年から1992年、ペシャーワルの亡命政権の外相を務めた。ラッバーニー派は、1992年にカブールへ最初の入城を果たしたムジャーヒディーン部隊となった。
[編集] 現在まで
ナジーブッラーの共産主義政権の崩壊にともなってラッバーニーは帰国、暫定指導評議会議長となり、1992年6月28日に大統領に就任した。しかし、有名無実の首相グルブッディーン・ヘクマティヤール率いるイスラム党 (ヘクマティヤール派) とイスラム協会との深刻な確執をはじめ、各派の争いは瞬く間に激化し、アフガニスタンは内戦状態に陥いった。各派による内戦の間にカーブルは壊滅的な打撃を被った。1996年9月、ターリバーンのカブール攻略によってラッバーニーらはカブールから脱出。しかしその後も、北部同盟と称された反ターリバーン勢力の支持によって戦闘を継続した。1997年6月に、北部同盟の大統領に就任した。アメリカ同時多発テロ事件後、ターリバーンをアフガニスタンから排除するための、アメリカとNATOによる軍事行動への協力にラッバーニーは合意した。共同作戦によってカーブルは陥落し、ラッバーニーは大統領の座に返り咲いたが、アフガニスタン暫定行政機構の発足に伴い、暫定行政機構の議長に選出されたハーミド・カルザイに権限を移譲した。現在は新政府の主要ポストは得ていないが、国内で政治活動を継続している。
[編集] 関連項目
- アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線(北部同盟)
- イスラム教会 (アフガニスタン)
[編集] 外部リンク
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