ルイス・フェリペ・スコラーリ
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ルイス・フェリペ・スコラーリ(Luiz Felipe Scolari、1948年11月9日 - )は、ブラジル出身の現サッカーポルトガル代表監督。ブラジルでは「フェリポン」の愛称で呼ばれる。
選手としての実績は乏しいものの、指導者としてグレミオ、パルメイラスでリベルタドーレス杯制覇に導き、名将の地位を確立。日本でも1997年にわずか4ヶ月だがジュビロ磐田で指揮を執り、後の黄金時代の基礎作りに貢献した(当時の登録名はフェリペ)。
2001年、コンフェデ杯での不振を受けて解任されたエメルソン・レオンの後を受けてブラジル代表の監督に就任。翌年の日韓W杯ではロナウジーニョやロナウド、リバウドら圧倒的な攻撃力を擁してチームを優勝に導いた。一方で規律を重視し、スターであったロマーリオを代表から外したことでも話題を呼んだ。
ブラジル代表監督を退任後、ポルトガル代表監督に就任。EURO2004では準優勝に導き、2年後のドイツW杯でも4位と健闘した。W杯ではブラジルを率いた2002年大会の初戦から、2006年大会の準決勝でフランスに敗れるまで監督として12戦負け無し(PK勝ちした2006年準々決勝のイングランド戦は引き分け扱いになるため、連勝記録としては11)という快記録も樹立した。
[編集] 監督としての特徴
ブラジル南部での指導キャリアが長く、その志向するスタイルはどちらかと言えばアルゼンチンのサッカーに似ている。クラブレベルではフィジカルを重視した組織的な守備を基本としたチーム作りを得意としている。ジュビロ磐田で彼の元でヘッドコーチとなった桑原隆は、守り方についての非常に細かい指示と、オフサイドトラップを確実性がないからと排していた事が印象に残っていると語る。
攻撃はヘディングの強いFWとそれをサポートする選手の組み合わせや、ロングボールやサイドアタックによる速い攻撃を好むが、攻撃は選手の個性に任せる(先の桑原が質問した所「守備は教えられるものだが、攻撃は教えるものじゃないと考えているから、選手の個性を重視したい」と答えたという)監督であるため、タイプの違うタレントが揃っている場合は、躊躇なくそのタレントを基礎にした戦術で戦う。戦術の引出しが多く使い分けが巧みな監督であると言える。
[編集] 逸話
- ジュビロ磐田の監督を途中で辞任したのはパルメイラスの監督に就任するため。ブラジルの本流でない地域で指導してきたため、ブラジルサッカーのメインであるリオデジャネイロやサンパウロにあるチームからのオファーは断れるものではなかったと語っている。
- 2003年8月のジュビロ磐田・J昇格10周年記念イベントにもビデオメッセージを寄せた。
- 2006 FIFAワールドカップ後のイングランド代表監督就任を要請されたが断っている。その理由を、「今こうして話している最中にも20人の記者が家を取り囲んでいるんだよ!」と、異常なマスコミの取材とやっていけそうにないからだとしている。
[編集] 指導者経歴
- CSAマセイオ(ブラジル) 1982-1983
- ジュベントゥージ(ブラジル) 1983
- アル・シャハブ(サウジアラビア) 1984-1985
- ゴイアスEC(ブラジル) 1986、1997-1998
- グレミオ(ブラジル) 1987-1990、1993-1996
- クウェート代表 1990
- クリシューマ(ブラジル) 1991
- ジュビロ磐田(日本) 1997
- パルメイラス(ブラジル) 1997-2000
- クルゼイロEC(ブラジル) 2000-2001
- ブラジル代表 2001-2002
- ポルトガル代表 2003-
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ブラジル代表 - 2002 FIFAワールドカップ(優勝) | ||
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1 マルコス | 2 カフー | 3 ルシオ | 4 ロッキ・ジュニオール | 5 エジミウソン | 6 ロベルト・カルロス | 7 リカルジーニョ | 8 ジウベルト・シウヴァ | 9 ロナウド | 10 リバウド | 11 ロナウジーニョ | 12 ヂーダ | 13 ベレッチ | 14 アンデルソン・ポウガ | 15 クレーベルソン | 16 ジュニオール | 17 デニウソン | 18 ヴァンペッタ | 19 ジュニーニョ・パウリスタ | 20 エジウソン | 21 ルイゾン | 22 カカ | 23 ロジェリオ・セニ | 監督: スコラーリ |