ロバート・ピトケアン
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ロバート・ピトケアン(Robert Pitcairn、1752年5月6日 - 1770年)はバウンティ号の反乱で一躍有名になった、南海の孤島ピトケアン島の発見者であり、ピトケアン島の名のもとになった人物。
イギリスのファイフ生まれで、ジョン・ピトケアンの10人いる子供の1人である。父であるジョン・ピトケアンはアメリカ独立戦争で、イギリス海兵隊の大きな役割を得た人物として知られている。ピトケアン一家の中で若かったロバートはイギリス海軍で経歴を選んで、最初はイギリス軍艦エメラルド号の船員として勤めた。1766年、14歳で海軍兵学校の生徒になりキャプテン・フィリップ・カーレット船長による世界航海する命令の下で、イギリス軍艦スワロー号の乗組員になった。1767年に航海中のスワロー号が島の近くに来て15歳だった乗組員の彼ロバート・ピトケアンが島を発見した事から彼の名からピトケアン島と命名された。しかし天候が嵐だったので島への上陸はしなかった。彼は15歳で島の名を自分の名から名付いた事に誇りを持っていたが、島の発見から約40年後にバウンティ号の反乱者が最後の隠れ家として島に住み着いた。島の発見からしばらく島の存在すら忘れ去られていたので、まさか彼自身もバウンティ号の反乱者達によって自分の名から名付けられた島が有名になるとは思っても見なかった。島の発見から2年半後、ロバート・ピトケアンは戦艦オーロラの乗組員になっり、1769年に船は喜望峰から出帆。1770年に船が嵐か火事になり船の乗組員(17歳だったロバート・ピトケアンも含む)が死亡したと言う。