ローレンス・ドハティー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
男子 テニス | ||
金 | 1900 | シングルス |
金 | 1900 | ダブルス |
ローレンス・ドハティー(Laurence Doherty, フルネーム:ヒュー・ローレンス・ドハティー Hugh Laurence Doherty, 1875年10月8日 - 1919年8月21日)は、イングランド・ウィンブルドン出身の男子テニス選手。3歳年上の兄レジナルド・ドハティーとともに「ドハティー兄弟」(Doherty Brothers)として活躍した。ローレンスは“Laurie”(ローリー)という愛称で呼ばれ、小柄な弟であったことから“Little Do”(リトル・ドー)とも呼ばれた。
ローレンスとレジナルドの「ドハティー兄弟」は、1897年から1906年まで「10年連続」ウィンブルドン選手権の男子ダブルス決勝に進み、1902年と1906年の2度敗れたのみで、通算「8勝」を記録した。先に兄のレジナルドが1897年から1900年までウィンブルドン選手権のシングルスに「4連覇」を達成したが、その間の1898年に決勝でローレンスとレジナルドの“兄弟対決”があり、ローレンスは兄に敗れたことがある。1901年にレジナルドの連覇記録が止まった後、弟のローレンスは1902年から1906年までウィンブルドン選手権のシングルス「5連覇」を達成した。ドハティー兄弟は「兄弟2人でウィンブルドンのシングルス9勝」を樹立した兄弟テニス選手として、テニス競技の初期に名前を刻んだ。
ドハティー兄弟はウィンブルドン選手権のみならず、海外遠征にも積極的であった。1900年のパリ五輪では、ローレンスは男子シングルスと、兄弟のダブルスの2部門で金メダルを獲得した。全米選手権にも遠征し、ダブルスでは1902年と1903年に2連覇を達成する。ローレンスは1903年にシングルスでも優勝を飾ったが、この時の決勝戦では、前年度の決勝でレジナルドを破ったウィリアム・ラーネッドと対戦した。ローレンスは 6-0, 6-3, 10-8 でラーネッドを破り、兄の“敵討ち”に成功した。
ドハティー兄弟は2人とも若くして早逝し、先に兄のレジナルドが1910年12月29日にわずか38歳の若さで亡くなった。弟のローレンスもその9年後、1919年8月21日に43歳で死去した。1980年、兄弟は2人揃って国際テニス殿堂入りを果たしている。
[編集] 主な成績
- シングルス5連覇(1902年-1906年)
- ダブルス8勝(1897年-1901年、1903年-1905年) [すべてレジナルドとのペア。準優勝2度:1902年、1906年]
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
![]() |
|
---|---|
1896年:ジョン・ピウス・ボーランド | 1900年:ローレンス・ドハティー | 1904年:ビールズ・ライト | 1908年:ジョシア・リッチー | 1912年:チャールズ・ウィンスロー | 1920年:ルイス・レイモンド | 1924年:ビンセント・リチャーズ | 1988年:ミロスラフ・メチージュ | 1992年:マルク・ロセ | 1996年:アンドレ・アガシ | 2000年:エフゲニー・カフェルニコフ | 2004年:ニコラス・マスー |
カテゴリ: イングランドのテニス選手 | 1875年生 | 1919年没