一夫多妻制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一夫多妻制(いっぷたさいせい)は、一人の男性が多数の女性を妻とすることを認める社会、もしくは法律上の結婚制度。本来「複婚」を指す「ポリガミーpolygamy」の語が充てられるが、一夫多妻は術語としてはpolygynyという語を用いる。また結婚と同様、婚姻についての厳密な一般的定義は不可能である以上、文化人類学/歴史学的に一夫多妻の結婚状態として扱う範囲も定義によって変容する。その点で「一夫多妻制」という言葉を用いる際は「一夫多妻」以上に制度的・法律的側面を強調することになるが、一般にはほとんど区別されない。
目次 |
[編集] 生物学的意義
ヒト以外の動物にも一夫多妻制は確認されており生物学的には、一夫一婦制や乱婚制との関係は雄(男性)の雌(女性)への繁殖投資の有無と深く関係していると考えられている。
一夫多妻制を営む動物は、配偶関係にある雌に対して保護や食物の供給を通じて投資を行わず、より多くのエネルギーを、より多くの雌と配偶行動をとることにつぎ込むことで自らの遺伝子を持つ子孫をより多く残す繁殖戦略をとるものが多い。乱婚制との違いは、なわばりなどの手段によってより多くの雌を囲い込み、そこからライバルの雄がそれらの雌と配偶関係を持つことを排除する、すなわち雌という繁殖資源の資源防衛を行う点にある。つまり、繁殖に費やすエネルギーの投資をより多くの雌を獲得することだけに注ぐのではなく、雌の囲い込みとライバルオスの排除に相当量投資することで、より確実に自らの子孫を残そうとしているわけである。このような繁殖戦略を取る動物としては、繁殖期に非常に多くの雌を囲い込み、ライバル雄を激しい闘争によって排除して交尾にはげむ、ゾウアザラシやアシカなどが代表的なものとして挙げられる。
一方、ヒトの社会は基本的に男性が女性の子育てに物理的保護と経済的な投資を行うことによって子育ての成功度を高くする戦略が基本にある。そのため、ヒトが一夫多妻制を取れるかどうかは、男性の社会的、経済的地位が十分に高く、より多くの女性とその子供に対して物理的、経済的保護を行うことができるかに依存する。
一夫多妻制の動物において、遺伝子に選択圧がかかり、淘汰される方向性は、個々の動物のより細かい繁殖システムによって異なる。囲い込まれる雌の側が雄の特定の形質を選択して選ぶ動物の場合、雌によってより好まれる形質を発現する遺伝子が選択されることになる。一方、ゾウアザラシのように、繁殖に適した地理的条件の場所を雄が激烈な闘争によって独占する動物の場合には、雄の闘争能力にかかわる遺伝子に強い選択圧がかかる。ゾウアザラシの巨大な雄は、こうした選択圧によって誕生したと考えられている。
一方ヒトの場合には、婚姻制度と遺伝子の選択圧の方向は単純には決められない。例えば前近代の一夫多妻制では、しばしば女性の側からの男性の選択は認められておらず、家と家との取り決めなど共同体の意思が重視された。そのため女性の好みの形質の淘汰が起きたとは考えられない。また先述のようにヒトの一夫多妻制を実現する基礎条件は、男性側の社会的地位、経済的地位の高さによる女性とその子供への投資能力であるが、こうした地位の実現に関わる遺伝的な素質に関しても、その時代や社会による変動が大きく、一概に論じることは困難である。
[編集] 文化人類学的観察
一夫多妻制は世界的にかなり広範に観察されるが、その成立要因については多様な説が並立しており、単純に論ずることはできないものの、原始的な成立要因という論点においての婚姻適齢期の両性の人口不均衡を原因とする説は否定されている。また一夫多妻制は一般には一夫一妻制と並立した婚姻形態となっていることが多く、婚姻に関する単一の社会規制として成立していたというイメージを持つことは危険であり、一夫多妻制が認められる社会であっても、大多数は一夫一妻が婚姻の基本形態である。
一夫多妻制を形態の面から観察する場合、姉妹型一夫多妻制と非姉妹型一夫多妻制に大きく分けることができる。
姉妹型一夫多妻制は一人の男性が姉妹を妻として娶る婚姻の形態である。姉妹型一夫多妻制は社会的階層分化の進展にともなって減少する場合が多く、原始社会で多い一方で古代から減少する。姉妹型一夫多妻制が婚姻する双方の両親の結合を重視する社会において、婚姻を社会的紐帯の非常に重要な要素とみなし、社会的安定性の担保としたためと考えられる。社会の階層分化や権威の発達にともない、このような結合の重要性が比較的減退していき、姉妹型一夫多妻制が一般的にはあまり見られなくなってゆく。古代においても経済的に上層に位置する人々のあいだでは遺制を残していることもあるが、中世にはいるとほとんどみられない。
一方、非姉妹型一夫多妻制は、単に妻たちが姉妹ではないというだけであって非常に広範なものであり、一概に論ずることはできない。冒頭の語義定義にあるように、婚姻の定義の範囲によって妻が一人で妾が複数という状態を一夫多妻制とみるかどうかが変容するからである。法的・制度的側面から考慮した場合、妾を持つことが事実上認められている状態であっても一夫一妻制となる一方、社会的・人類学的側面から考慮した場合は一夫多妻制となる。この際着目すべきは、妻たちのあいだに存在する差異であるが、これも正妻と妾らという形態のほかに、多数の正妻、また正妻以下順次序列のある形態などさまざまである。したがって婚姻と同様、一夫多妻制についても、個別社会的文脈からの把握が中心とならざるをえない。
[編集] 歴史的観点
先述のように一夫多妻制は概念史的に論ずることは困難であり、個別具体的な社会的文脈から把握せざるをえない。したがって本節では各文化での一夫多妻制のあり方を記述する。婚姻は生活の重要な要素であり、生態的・地域的な要素と同様に宗教的規範として規制が行われる分野である点に注意が必要である。
[編集] イスラームにおける一夫多妻制
一夫多妻制社会の具体例としてとりあげられることが多いのがイスラーム社会である。ここではイスラームにおける一夫多妻制を説明するが、イスラーム世界は地域的には非常に多様な世界からなり、それらの地域が必ずしもイスラーム的規範のみから婚姻制度を確立しているわけではなく、地域的慣行なども影響する点は注意が必要である。これらについては地域別の婚姻制度についても参照。
イスラームにおける一夫多妻制は法源をコーランとするイスラーム法的制度である。男性は4人まで妻を娶ることができる。しかしコーランの規定上、夫は妻を保護し扶助を与える義務があり、またそれぞれの妻のあいだに差異を設けることは決して許されない。これらの条件を満たせないときは一夫一妻が奨励され、夫が義務を怠ったりそれぞれの妻の扱いに差異を設けた場合は離婚申し立てと賠償の根拠となりうる。
イスラーム社会で一夫多妻制が制度として確立しているのは、イスラーム共同体の初期の社会状態が背景にあると説明されることが多い。正統カリフ時代は戦争が相次ぎ、女性は故郷に残されたまま寡婦となることもあった。この際の経済的扶助手段として導入された、とされる。また教義面からはイスラームは宗教的に結婚と社会的再生産を奨励するため、女性の結婚する権利を特に重視する。しかしながら戦時など一時的に男女間の人口不均衡が起こった際に女性が結婚できにくくなる可能性があり、この際に女性の結婚権を保障するために一夫多妻制が導入されたとも説明しうる。また世界的に広く認められるように、男性の選好および家の血統保持の観点から、一夫一妻制で子をなせない場合に男性が妻以外の女性と子をなすことは多いが、これを制度的に確立することで、婚姻制度に一定の安定性を持たせたものともいえる。
一般的にはオリエンタリズム的な乱脈で淫靡なイメージがイスラームの一夫多妻制から想起されているが、大部分は外部世界の性的妄想である。イスラームにおける婚姻制度は法的にきわめて厳格であり、二人以上の妻をもつ場合の男性の経済的負担は非常に大きいものとなる。したがって一定以上の社会的地位と経済的実力を持たない限り二人以上の妻を持つことは困難である。歴史的にイスラーム社会においても二人以上の妻をもつのはごく限定的なものであり、それ以上は大商人などの非常に限られた層だけであったことが明らかになっている。
近代に入ると、社会の安定に伴って一夫多妻は減少し、さらにヨーロッパ法の導入にともない、イスラーム社会においても一夫一妻がほとんどとなった。また女性差別であるという批判も受けるようになった[要出典]。これに対しては理念的に女性差別の制度ではないとしつつも、社会秩序維持上必ずしも必要な制度ではないとしてムスリムが大多数の国家でも法制的に禁止したり、一夫多妻の婚姻にかかわる審査を非常に厳格化して事実上不可能としている国もある。一方でヨーロッパ近代的な批判への反発から、イスラーム主義者のあいだでは一夫多妻制をイスラーム的な特色として推奨する立場もあらわれ、特にインドネシアなどでこの傾向が強い。
[編集] モルモン教における一夫多妻制
アメリカ合衆国のモルモン教においては末日聖徒イエス・キリスト教会の二代のブリガム・ヤングによる悪魔のいない土地へのモルモン開拓者の移動で信者約6000人失って準州ユタ、現ソルトレーク市に到着した際に一夫多妻制をとったが、ウッドラフの神から中止啓示により1890年に廃止されたとされる。このことにより1895年に準州からユタ州に昇格した。ただしアリゾナ州など他州との州境においては、近年までみられたという。
[編集] 日本の一夫多妻制度
日本では、江戸期迄は上流社会において男子の跡取を生むという名目の元で側室制度があった。『室』というのは妻女を指し、正室は1人、側室は複数人で、跡取となる息子は彼女らの内の誰かが生母となるのである。男子の跡取を生むとその生母は地位が上がってゆく。江戸城のそれは大奥といわれた。側室制度は、中国から伝わったもの[要出典]。 また天皇や武士に限らず、富裕商人が『妾』を持つ例は少なくなかった。「浮気は男の甲斐性」という言葉はこのような文脈で用いられる。
- 現代でも、2005年9月においては一応解決のメドがついたが、皇太子徳仁親王夫妻に男児が生まれないのを理由に側室制度の復活を求める意見があった。昭和天皇も始め内親王ばかり生まれるので、宮内庁から同様の意見が出た。ただしこれは昭和天皇の意向で実現しなかった。
[編集] 関連項目
- 一夫一婦制
- 一妻多夫制
- 集団婚
- 配偶システム
- 東大和市一夫多妻男事件
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 結婚 | 後宮