丁部領
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丁部領(ディン・ボ・リン、Đinh Bộ Lĩnh、924年 - 979年)は、ベトナム丁朝の建国者。後世には丁先皇(ディン・ティエン・ホアン、Đinh Tiên Hoàng)と尊称された。
丁部領のもとの名は丁環(ディン・ホアン、Đinh Hoàn)といい、その父の丁公著は、北ベトナムの楊廷芸の政権の下で将軍となった。丁部領は、父の地盤を継いで、華閭洞を支配した。951年、呉朝の呉昌岌・呉昌文は、丁部領の根拠地の華閭洞を包囲したが、落とすことができなかった。
その後、丁部領は叔父の丁預を討伐して帰順させ、勢力を強めた。ときに十二使君の乱によってベトナム豪族の地方割拠が進んだが、十二使君のひとりの陳覧と協力し、陳覧の死後にはその跡を継いだ。また使君のひとりの呉日慶を降伏させたのち、その母をめとって妻とし、また娘を呉日慶にとつがせた。息子の丁璉には呉日慶の妹をめとった。また平橋路上に進軍して、呉朝の後裔の呉昌熾を宴会に誘って脅し、屈服させた。また十二使君の杜景碩・阮超とは、長年にわたって争った。杜景碩を包囲し、杜景碩は流れ矢に当たって戦死したため、杜氏の兵を降した。阮超はもっとも頑強であったが、阮超の軍の渡河中に、突風が起こって、軍船や軍の物資はすべて水中に沈んだ。丁部領はこれを知って、十人の勇士を潜入させて阮超の陣営を焼き、阮超軍を大いに破った。そののち、矯順・阮守捷・阮寬・呂唐らの使君を各個撃破して、北ベトナムを統一した。
968年、推されて交州帥となり、大勝王を号した。大瞿越国を建国し、華閭に都を置いた。979年、子の丁璉とともに侍衛の杜釈のために刺殺された。