三好康長
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三好 康長(みよし やすなが、永正3年(1506年) - 天正13年(1585年)?)は三好長慶の叔父。三好長秀の子。法名は笑岩。
三好一族の一人で、河内高屋城を本拠とした。長慶をよく補佐し、その死後は三好三人衆をよく補佐したという。
織田信長が上洛してくると康長は独自路線から信長と対立したが、信長の敵ではなく、やがてその家臣となった。以後は信長から命を受けて1581年、四国征伐の先鋒として阿波に渡ったが、翌年、本能寺の変で信長が横死したため、康長は四国から逃亡し河内に帰っている。
その後は、当時日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため羽柴秀吉に従い、秀吉の甥・羽柴孫七郎を養子として迎えたが、康長のその後の行方は詳しくわかっていない。「宗及記」では天正12年(1584年)に津田宗及の茶会に出席しており、また「元親記」では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。