三戸式部
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三戸式部(さんのへしきぶ ? - 明治15年(1882年))は三戸南部氏一族の盛岡藩家老。北信愛の子孫。受領名は式部大夫。高知衆の一人。三戸民部と混合される場合があるが別人物である。
文久2年(1862年)に家老に就任する。楢山佐渡と東中務による派閥争いには中立の立場に徹していた。重要案件が持ち上がった場合も全て楢山佐渡に一任していた。家中内部の前藩主南部利義と現藩主南部利剛による派閥争いにも心を痛めていたが、積極的に動いた形跡は無かった。
慶応3年(1867年)に楢山佐渡の指示により藩兵を率いて上洛したが、大津で鳥羽・伏見の戦いを知り、国許に急使を送った。その後、藩命により京都留守居役として情報収集にあたった。慶応4年(1868年)9月に国許に帰国し、奥羽越列藩同盟で旧幕府側についた南部盛岡藩は新政府軍に降伏するときに藩主・南部利剛の名代として奥羽鎮撫軍総督・九条道孝に拝謁し降伏した。
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