三村元親
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三村 元親(みむら もとちか、生年未詳 - 天正3年6月2日(1575年7月9日))は備中の戦国大名にして備中松山城主。三村家親の次男。母は阿波三好氏の女。
父・三村家親は,毛利氏を後ろ盾に備中国のほぼ全域及び備前国の一部を勢力下におさめ、備前国・美作国への勢力拡大を図っていたが,正攻法では叶わぬとみた宇喜多直家によって暗殺されてしまう(1566年)。
元親は家督を相続し、宇喜多氏への復讐を狙い,約2万の兵を率いて備前に進攻するも,わずか5千の宇喜多勢に大敗する(明禅寺合戦)。これがもとで備中における三村家の威光は衰えを見せたが、毛利氏の支援もあり,元親はこれを押しとどめることができた。
その後(1574年)、その毛利氏が不倶戴天の宇喜多直家と結んだため、元親は叔父・三村親成や竹井氏など一部重臣の反対を押し切り、織田信長と通じ、毛利氏から離反する。毛利家中の一大事と見て三村氏討伐を進言する小早川隆景に対し、吉川元春は(毛利家が宇喜多氏と結ぶこと自体にも反対していたが)三村元親と直接会って翻意させるので討伐は避けるようにと進言した。しかし、山陽道を任せられていたのは小早川隆景であり、吉川元春は山陰道を任せられていたため進言は容れられず、小早川隆景の意見が採用された。
毛利軍は三村元親の手で要塞と化していた本城・備中松山城から攻めることはせず,周囲を固める端城を次々と落としていく作戦に出た。端城を落とした毛利軍は備中松山城を取り囲んで持久戦とし,多勢に無勢の状況で同城は陥落した。
元親は妻子・家臣とともに落ちのびを図るが、もはやこれまでと覚悟を決め,毛利軍に使いを出して検使のもとでの切腹を願い出た。毛利氏は願い出を認め、元親は旧知の間柄であった毛利家中・粟屋元方が見守る中、辞世数首を残して松連寺で自刃し,短い生涯を終えた。以下はそのうちの1首。
『人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に』
元親は戦国武将の顔とは別に、詩歌に精通するなど典雅を好む教養人としての顔も有していた。細川幽斉とも親交があり、幽斉は備中松山城篭城中の元親に『八雲集』を届けたという。元親は自害に際し、その幽斉にも1首送っている。その後、元親の子・勝法師丸も捕らえられ、助命嘆願の声もあったが,その利発さを恐れた小早川隆景によって殺害された。