三武一宗の法難
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三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん)とは、中国で仏教を弾圧した事件の中で、規模も大きく、また後世への影響力も大きかった4度の廃仏事件を、4人の皇帝の廟号や諡号をとって、こう呼ばれる。
- 北魏の太武帝(位423年 - 452年)の太平真君年間。
- 北周の武帝(位560年 - 578年)の建徳年間。
- 唐の武宗(位840年 - 846年)の会昌年間。
- 後周の世宗(位954年 - 959年)の顕徳年間。
日本の明治時代の廃仏毀釈と同様の仏教弾圧(=法難)事件であるが、但し、皇帝権力の強い中国においては、この四度に限らず、仏教を排斥する政策は度々とられている。その場合は、大規模な廃仏とは区別する意味で、沙汰という用語が用いられたり、現代的には仏教統制政策と呼んだりしている。例えば、玄奘三蔵の大々的な訳経事業を外護した唐の太宗も、仏教を沙汰する詔を発している。
弾圧する為政者側からは、廃仏と呼ぶが、弾圧される仏教側からは、非難の意味を込めて、仏教にとってこの皇帝の時代は不運であったことを表す言葉として法難が用いられる。古くは、後述される政治・経済上の要因まで考慮されることがなく、仏教に対する攻撃の裏には、必ず道教勢力の暗躍があったため、それに扇惑された皇帝が、廃仏事件、仏教側から見た法難をひき起こしたのだとする、一方的な見方をされるのが常であった。
各廃仏時の扇惑者とされる人物
上記の6名中、崔浩、衛元嵩、李徳裕以外の3名は、すべて道士である。
なお、後周の場合は、道教徒と関わった事実が存在しなかったので、世宗自身の意志で断行されたと認められている。但し、廃仏の後、4人の皇帝とも若くして非業の死を遂げたのは、すべて仏罰である、ということを強調する時には、後周の世宗も含まれている。
北魏太武帝と唐の武宗は、道教を保護する一方で、仏教を弾圧したが、北周の武帝は、道教も仏教もともに弾圧した。その一方で、通道観という施設を新設し、仏教・道教を研究させている。後に述べるように道教の保護だけに留まらず経済政策の意味もあった。
唐の武宗の仏教弾圧については、その元号をとって会昌の廃仏と呼ばれる。
弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊(但し、必ずしも施設の破壊を意味する訳ではない。一般施設や住居に転用される場合が多い)と財産の没収、僧侶の還俗であり、特に後周の世宗の場合は、純粋に、寺院の財産を没収し、国家の公認した度僧制度によらず勝手に得度した者(私度僧)や脱税目的で僧籍を取る者(偽濫僧)を還俗させて税をとることで財政改善を狙った経済政策であった。銅(貨幣の材料)や鉄(武器の材料)という金属を中心とした物資を、仏寺中の仏像や梵鐘などから得ることも、当時の情勢(唐の武宗時代の銅銭不足による経済混乱、後周の世宗時代のいわゆる「十国」の再統一事業)からして、差し迫った問題であった。 また、軍事面でも出家して軍籍から離脱する国民が多量に出ることは、特に戦乱の時代にあっては痛手であった。特に五胡十六国の時代には、それまで啓示系の宗教が中国にはなかったこともあって仏教の影響力は絶大で、北斉の史官魏収は、寺三万、僧尼200万と記しており、この数字を鵜呑みにするならば、全人口が1000万にも達しなかったであろう当時の割拠政権にとって、そのような膨大な人口を再び国政に戻すことは必要止む得ない事情もあったと言える。ただ、30,000箇寺、僧尼2,000,000人というのは、北朝・南朝にかかわらず、『魏書』以外の史料に見える数字と比較しても、著しく突出しており、仏教崇拝の弊害を強調しようとして誇張したものと考えられる。