三浦貞勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三浦 貞勝(みうら さだかつ、天文12年(1543年) - 永禄7年12月15日(1565年1月17日)は、三浦貞久の男、三浦貞広のおそらく弟。孫九郎。生誕年は1538年という説もある。
父・貞久の死後永禄2年(1559年)、出雲尼子氏のもとにあった兄・貞広に代わり旧臣によって擁立され、所領を奪い返して高田城に在城した。以降浦上宗景に与同したとみられるが、永禄7年(1564年)12月15日、三村家親に高田城を攻められて自害。22歳。法名は称名院殿真月宗金(宗全とも)。
この時に落ち延びさせた妻(円融院)は後に宇喜多直家の妻となった。
カテゴリ: 日本の歴史関連のスタブ項目 | 戦国武将 | 1543年生 | 1565年没