下関戦争
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下関戦争(しものせきせんそう)は、元治元年(1864年)にアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダの4か国艦隊が下関を砲撃し、長州藩を屈服させた事件のこと。四国艦隊下関砲撃事件、四国連合艦隊下関砲撃事件、下関事件、馬関戦争ともいう。この戦争で三人にビクトリア十字勲章が授与された。
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[編集] 経緯
その事件は、尊王攘夷派が幕府に約束させた攘夷決行の期限であった文久3年5月10日(1863年)に長州藩が下関海峡(当時は馬関海峡)を通過するアメリカ商船ベンプローク号(Pembroke)を攻撃したことに端を発する。ついで、5月23日フランス商船(Kien-Chang)号、5月26日オランダ軍艦Medusa号を砲撃。すぐにアメリカ・フランス軍艦から攻撃を受けたが、長州藩は砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。
元治元年8月(1864年)、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四か国艦隊は、軍艦17隻、大砲288門、兵員約5000名をもって下関に集結した。イギリス留学から帰国した伊藤博文、井上馨が戦闘回避に奔走するが戦闘の方針は変わらず、8月5日に戦闘が開始された。連合軍は陸戦隊を上陸させ、3日間で砲台を破壊した(写真は、フランス軍に占領された前田砲台の様子を撮ったもの)。
その後、高杉晋作によって和平交渉が行われ、長州藩は下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、下関砲台の撤去などの条件を受け入れて講和が成立した。
禁門の変とこの事件により、長州藩内の攘夷派は没落し、保守派へと主導権が移っていったのである。
[編集] 下関賠償金
1883年2月23日 チェスター・A・アーサー米国大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5千ドル87セント)の日本への返還を決裁した。
- 文久3年1863年長州藩の4ヶ国の艦船への砲撃に対する賠償総額は300万ドルであった。幕府は150万ドルを支払い、新政府が残額を明治7年までに分割で支払った。分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万5千ドルを得ていた。
実際の米国の損失は、
- 米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル
- 長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル
- 水夫への危険手当2000ドル
であった。
なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていた。結果、米国の損害は合計1万ドルに過ぎなかった。この賠償金は米国政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた。その実情を1872年(明治5年)フィッシュ国務長官(Hamilton Fish)が森有礼公使に伝えた事から、日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである。日本では明治22年、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し、明治29年5月に完成している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 下関戦争に活躍したDuncan Boyes