中山忠能
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中山 忠能(なかやま ただやす、1809年(文化6年)-1888年(明治21年)6月12日)は、江戸時代末期から明治時代前期にかけての公家、政治家である。明治政府の議定。父は藤原北家の花山院流権大納言・中山忠頼で長男、母は正親町三条実同の娘・綱子。子に中山忠光。娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、明治天皇を産んだことから、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。
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[編集] 生涯
1847年、権大納言となる。1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り、関白の九条尚忠を批判する。1858年、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。
その後、議奏となる。公武合体派の公家として1860年、孝明天皇から和宮と13代将軍徳川家定の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌1861年、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、63年に議奏を辞職して失脚した。
1864年、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。1866年、孝明天皇が死去すると、復帰を許される。
1867年、岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、同時に15代将軍徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力した。1888年、80歳で死去。
[編集] 墓所
[編集] 著作
『中山忠能日記』全3巻