中島宣長
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中島左衛門尉宣長(なかしまさえもんのじょうのりなが)は、鎌倉時代の尾張国中島郡中島村の中島城主。通称中島 蔵人(なかしま くらんど)。
中島氏は嵯峨天皇第十二子河原院(左大臣源融)の末裔、嵯峨源氏に属する。 1221年(承久3年)6月5日に尾張国中島郡に土着し、地名をとって中島氏を称するようになる。 源融十三代の子孫が初めて「中島左衛門尉宣長」と名乗り、同地を領したとされる。 宣長とその子孫は歴代「中島蔵人」とも号していた。
[編集] 資料
- 「円光大照禅師行状」
- ~師、尾州中島郡人。其先嵯峨天皇第十二子河原院也。以延慶三年庚戌年生於源氏。
- ~尾張国住人中島左衛門尉宣長の名があり。宣長は承久の乱後鳥羽上皇方に味方し一時所領を没収される。貞和4年(1348年)、臨済宗の妙興寺が創建され、土地の豪族中島氏、荒尾氏が領地を寄進する。