中藤敦
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中藤 敦(なかふじ あつし)(1902年10月15日-1966年10月18日)は関西で活躍した写真家である。 キリスト教の伝道師から 転職後、小石清との出会いにより、1937年(昭和13年)に、浪華写真倶楽部に入会し、戦時中は、小石清らと共に内閣情報局の元で報道写真家協会に所属し、報道写真を撮った。特に戦後の浪華写真倶楽部再建を花和銀吾、田中正規、本庄光郎らと共に労し、復活させた一人である。小石清、安井仲治らに指導を受け、独自のゴム印画を制作した。
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[編集] 生い立ち(略歴)
中藤敦(旧姓:山口)は1902年広島市生まれ、広島高等工業学校を卒業後、就職したが病を得、療養生活中にキリスト教に出会い、1922年(大正11年)に洗礼を受けた。その後セブンスデー・アドベンド教団神学校「天沼学院」を卒業し、伝道生活を送る。1923年(大正12年)の関東大震災には東京の教会にて被災。結婚後、東京市外大森町にある大森講義所で伝道師として従事する。七年間の伝道生活の後、大阪砲兵工に就職。職場にあった写真クラブ(小石清指導)に顔を出し、写真と接点を持つ。プラモデル屋、豆乳屋、などを営む。浪華者写真倶楽部に入会後、同会展も含めて、いくつかの写真展で入選を果たし、戦後の同倶楽部で、指導員として後輩を育成した。その中には津田洋保、高田誠三などがいる。また独自の暗室技術によりカラーのゴム印画制作に取り組んだ。報道写真、風景写真などを写真雑誌等に作品を多数発表。「アサヒカメラ」では撮影地案内などを、「カメラ毎日」では、指名質問というコーナーで交代で愛読者からの質問に答えて撮影のコツなどを回答していた。写真画材店の経営もしていた。また戦後、日本報道写真連盟の創設に参加して昭和37年まで理事として活躍、カラー写真展では日本で先鞭をつけた。関西カラーラボ協会理事長を勤めた。浪華写真倶楽部で、戦後の間もない時期の代表格の一人として活躍し、関西写壇に欠かせない写真家の一人となった。 1966年、64歳で他界した。
[編集] 代表作
- 「バレエ」 1939年
- 「無題」(ゴム印画)昭和35年
- (全日本写真連盟関西本部 60周年記念名作展60名による代表作の60品に出品)
- 戦前は日本写真美術展(毎日新聞主催)に入選、文部大臣賞、情報局賞を得た。
「国際写真サロン」に「砂丘」を出展
- 戦後3回目の全日本寫眞連盟主催「日本写真サロン」にて特選(秋の藍田、秋色)等を得た。1950年(昭和25年)
- 横浜美術館に作品数点を寄贈。同美術館カタログに掲載される。
[編集] 著作
- 『北陸への旅』教養文庫 中藤敦著 社会思想社 1963年6月 200円
[編集] 主要展覧会
- 49回浪展 中藤敦遺作展併催(6/29-7/4、大阪そごう2Fギャラリー)/1967年
- 故・中藤敦 回顧展 大阪 心斎橋 Nikon Salon 2月9日(日)~15日(土)1975年(S.50年)
[編集] 主要参考文献
- 日本写真芸術学会 関西シンポジウム 1997年11月記録 新興写真の時代 第3回 浪華写真倶楽部「日本写真芸術会誌」第6巻第2号 平成9年度 pp,63-101.
- 『 浪展 : 浪華写真倶楽部創立90周年記念』 [大阪] : [浪華写真倶楽部], 1994年
- 「浪」創立60周年記念回顧集」 浪華倶楽部 1966 付 創立60周年記念回顧座談会
- 「浪」第70回浪展記念写真集」 1991年 付録 浪華写真倶楽部沿革史p121-138
- 「浪華写真倶楽部会報」第10号(昭和39-41年)中藤敦氏追悼「浪」出版記念号 1967
- 『キリスト教年鑑』 キリスト新聞社
- 『カメラ年鑑1952年版』(日本カメラ臨時増刊)写真人名簿 p.275
- 『アサヒカメラ年鑑』1954年(昭和29年)写真関係者名簿
- 『アサヒカメラ年鑑』 1964年(昭和39年)
- 『アサヒカメラ年鑑』 1965年(昭和40年)
- 再録 木村伊兵衛対談 べらんめいレンズ放談「アサヒカメラ」2002年1月増大号(通巻902号p.178-186)
- 『日本写真全集』 3 小学館 1986
- 『全関西写壇五十年史』
- 『全関西写壇史Ⅱ:60年のあゆみ』 全日本写真連盟関西本部発行
[編集] 関連事項
日本報道写真連盟