今川氏輝
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 永正10年(1513年) | |||
死没 | 天文5年3月17日(1536年4月7日) | |||
別名 | 竜王丸(幼名)、五郎(通称) | |||
官位 | 従五位下、上総介 | |||
墓所 | 神奈川県の臨済寺 | |||
氏族 | 今川氏 | |||
父母 | 父:今川氏親、母:中御門宣胤の娘・寿桂尼 | |||
兄弟 | 氏輝、彦五郎、玄広恵探、義元、氏豊 |
今川 氏輝(いまがわ うじてる)は、駿河の戦国大名。今川氏の第8代当主。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
永正10年(1513年)、駿河の戦国大名で今川家の第7代当主・今川氏親の嫡男として生まれる。大永5年(1525年)、元服する。大永6年(1526年)、父・氏親の死で家督を継いだ。しかしそのときはまだ14歳という若さであったため、母・寿桂尼の補佐を受け、彼自身も聡明であったために、その政権基盤は無難にして磐石なものとなったといわれている。
[編集] 謎の最期
天文元年(1532年)頃から、氏輝は自ら親政を開始する。天文2年(1532年)には遠江において検地を行ない、さらに朝廷に献上物を送るなどして、中央との関係強化に務めた。天文4年(1535年)には、相模の北条氏綱と連携して、甲斐の武田信虎と戦った。
天文5年(1536年)には、前年に不慮の死を遂げた松平清康の死で混乱する三河侵攻の準備を整える途中で、急死してしまった。享年24。この突然死には諸説があり、一説では毒殺説も疑われている。氏輝には嗣子が無く、この死が後に起こる今川義元とその兄による家督相続争い・「花倉の乱」へとつながるのである。
[編集] 人物
- 家臣団編成で初めて、「馬廻衆」を創設したり、領国においての流通を重要視して商人を積極的に保護したりなど、内政・軍事共に大きな結果を残している。
- 氏輝は家督相続から20歳に至るまで、生母の寿桂尼に補佐されていたが、この間に彼女が発給した公文書は確認されているだけで12通に及ぶ。そのため、今川家の「女戦国大名」と称された。
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