佐竹義俊
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佐竹 義俊(さたけ よしとし、応永27年(1420年) - 文明9年11月24日(1477年12月29日))は、室町時代の人物。佐竹氏当主。(第十二代当主)佐竹義人の子。佐竹義治(第十四代当主)、天神林義成、戸村義易、宇留野義公の父。伊予守。初名は義従。
永享9年(1437年)に父の義人から家督を譲られていたが、実権は父が握っていた。弟の佐竹実定を寵愛した父に疎まれ、享徳元年(1452年)に太田城 (常陸国)から追放された。のちに弟と父の死後、応仁元年(1468年)に甥の佐竹義定を追放し義俊が太田城に返り咲いた。
当時の佐竹氏は混乱していたため、義俊本人の詳細な事績には不詳な点が多いが、佐竹氏本家の混乱が庶家山入氏の跳梁や新たに勃興した江戸氏(常陸江戸氏)の台頭を許す結果になる。