六郷政純
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
六郷 政純(ろくごう まさずみ、享和元年(1801年) - 文政5年8月22日(1822年10月6日))は、出羽本荘藩の第8代藩主。第7代藩主・六郷政速の三男。母は側室と言われている。正室は永井直興の娘。官位は従五位下、阿波守。
幼名は勝吉。長兄の六郷政芳が病弱だったことから廃嫡されたため、文化7年(1810年)10月に世子となる。文化9年(1812年)、父の死去により後を継いだ。しかし幼年のため、藩政は家老の内本一九郎が掌握し、藩政改革を行なった。内本は人件費節約や領民に対しての御用金廃止、村名主の佐々木助右衛門登用などの人材登用で手腕を見せたが、藩内保守派の反発を受けて文化10年(1813年)3月に失敗に終わっている。政純自身は絵がうまかったと言われている。文政5年(1822年)8月22日、嗣子なくして22歳の若さで死去し、後を養嗣子の六郷政恒(兄・政芳の長男)が継いだ。法号:寛量院仁聡良慧。墓所:東京都台東区西浅草の万隆寺。
|
|
|